2026年3月9日月曜日

本能寺で刻まれる明智光秀の決断②

石畳に足を踏み入れると、時間が歪むように止まった。
風の音も、鳥のさえずりも、遠くで馬が鳴く声も、すべてが遠くに霞む。
胸の奥で、鼓動が雷のように轟き、全身を震わせる。

「ここだ……本能寺……」
自らの声が耳に届かぬほど、頭の中はざわめいていた。
忠義か、復讐か、恐怖か、怒りか――いや、もう名前などつけられぬ感情が、私の全てを支配している。

門の向こう、暗い廊下の奥に、信長の影が見える——気配だけでも、胸が締め付けられる。
この瞬間、過去のすべての屈辱が、私を焼き尽くす。
振り返れば、忠義の影が私を呼ぶ。
「戻れ、まだ間に合う」と。
しかし、前に進むこの足の重みは、もう戻れぬことを告げていた。

刀を握る手が震える。冷たい汗が指先に伝わる。
頭の中で声が叫ぶ。
「やめろ!」「行け!」
互いに打ち消し合う声が、思考の迷路を作る。

寺の内部は静まり返り、蝋燭の炎だけが揺れている。
壁にかかる影が、私の心の内を映す鏡のように揺れる。
天井の梁の隙間から差す朝日が、一筋の光となり、私の胸を突き刺す。

「信長よ……私は、これを成すしかない」
決意が、恐怖を押しのける。しかし恐怖は消えず、全身を覆い、骨まで凍らせる。
心の奥で、怒りと哀しみ、正義とも言えぬ感情が渦を巻く。

足音が、石畳に響く。
その音が、世界を再び動かし始める。
廊下の向こうで、信長の声が微かに聞こえる気がした——いや、幻かもしれぬ。
しかし、この一歩を踏み出さぬ限り、歴史は動かない。

私は刀を握り直し、深く息を吸う。
震えは手だけでなく、全身を貫く。
だが、胸の奥に燃える炎は、揺らぐことを知らない。

「行く……行くのだ……」
足を前に出す瞬間、時間は再び流れ出す。
廊下の闇も、蝋燭の揺らめきも、すべてが私の決意の証人となる。

歴史は、この手によって刻まれる。
恐怖も、怒りも、忠義も、裏切りも、すべてを抱えながら――。
私は、本能寺の中へと踏み込む。
運命の歯車が、今、私の手で回り始める。

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