2026年5月21日木曜日

織田信長シリーズ⑩ 美濃への道

織田信長、美濃への道

尾張の空は、いつもより広く見えた。

風が草を揺らし、遠くの山並みをかすかに青くにじませている。
その向こうに、美濃があった。

稲葉山。

その名を口にするだけで、家臣たちの表情が変わった。

尾張の中で争っていた頃とは違う。
相手は隣国であり、城であり、国そのものだった。

信長は馬上から、遠くを見ていた。

まだ、そこに城の姿がはっきり見えるわけではない。
けれど、彼の目には見えていた。
山の上に立つ城。
その城を囲む兵。
その先に続く、さらに広い道。

家臣たちは黙っていた。

誰も軽々しく言葉を出せなかった。
尾張をまとめたとはいえ、外へ出るということは、すべてが変わるということだった。

守る戦ではない。
奪いに行く戦である。

勝てば、尾張は尾張のままではなくなる。
負ければ、積み上げてきたものが崩れる。

その重さを、皆が知っていた。

だが信長だけは、別のものを見ていた。

危うさではない。
恐れでもない。

もっと大きなものだった。

尾張という国の輪郭が、彼の中で少しずつ狭くなっていく。
若き日にうつけと呼ばれた男は、もう小さな国の中だけを歩く男ではなかった。

桶狭間で今川義元を討った時、世は信長の名を知った。
徳川家康との同盟によって、背後には静かな支えが生まれた。

そして今、信長の視線は美濃へ向かっている。

それは、ただ隣の国を取るという話ではなかった。

美濃を越えれば、その先に近江がある。
さらに先には京がある。

京。

その響きが、まだ誰の口からも出ないうちから、信長の胸の奥では燃えていた。

家臣の一人が、低い声で言った。

「殿、美濃は容易ではございませぬ」

信長は振り返らなかった。

ただ、風の中で小さく笑った。

「容易なら、誰かがもうやっておる」

その言葉に、誰も返せなかった。

信長の声は大きくなかった。
けれど、その場にいた者たちの胸に、冷たい火のように残った。

この男は、本気で美濃を取るつもりなのだ。

そして、美濃だけで終わるつもりもない。

家臣たちは、ようやく気づき始めていた。
自分たちが仕えている男は、ただ戦に強い武将ではない。

国の形を変えようとしている。
時代の向きを、力ずくで変えようとしている。

遠くの空に、雲が流れていた。

尾張の風ではなかった。
美濃から吹いてくる風でもなかった。

もっと遠くから来る風だった。

信長は馬の手綱を握りしめた。
その目は、まだ見えぬ稲葉山を射抜くように見つめていた。

家臣たちは、その背中を見ていた。

恐ろしいほど真っ直ぐで、危ういほど静かな背中だった。

この背中についていけば、どこへ連れて行かれるのか。
誰にも分からなかった。

けれど、もう戻れないことだけは分かっていた。

尾張の小さな地図は、信長の中で破られていた。

その先にあるのは、美濃。
その先にあるのは、京。
そして、まだ誰も形にできない大きな天下だった。

信長は静かに馬を進めた。

草の海が割れるように道が開く。
家臣たちも、ひとり、またひとりと続いた。

尾張の外へ。
美濃へ。

そして、時代の中心へ。

織田信長の野望は、この日、はっきりと国境を越えた。


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