尾張の風は、まだ軽かった。
けれど、その軽さの奥に、どこか落ち着かないものが混じりはじめていた。
田のあぜ道を吹き抜ける風。
城下の土ぼこりを巻き上げる風。
武家屋敷の障子を、かすかに鳴らす風。
それはまだ、大きな時代の音ではなかった。
けれど、耳のよい者なら気づいたかもしれない。
何かが、尾張の中で少しずつ動き出していることに。
織田信長。
かつて「うつけ」と呼ばれた若者は、もうただ奇妙な格好で町を歩く男ではなかった。
誰にも読めない目で遠くを見て、誰にもわからない速さで物事を決める男になっていた。
尾張は、ひとつの国でありながら、ひとつではなかった。
家ごとの思惑があり、城ごとの意地があり、古くからのしがらみがあった。
同じ織田の名を持つ者たちでさえ、腹の底では別々のものを見ていた。
誰が上に立つのか。
誰につけば生き残れるのか。
誰を見限ればよいのか。
そんな目が、尾張のあちこちで揺れていた。
信長は、その揺れを見逃さなかった。
怒鳴るだけではなかった。
斬るだけでもなかった。
許す時は許し、奪う時は奪い、待つ時はじっと待った。
若い。
荒い。
礼を知らぬ。
そう言っていた者たちは、いつの間にか言葉を少なくしていった。
信長の動きには、無駄が少なかった。
一度決めたことは迷わず進めた。
敵か味方かを見極める目は冷たく、その冷たさの奥に、炎のようなものがあった。
家臣たちは、最初それを恐れた。
次に、戸惑った。
そして、少しずつ黙って従うようになった。
「若殿は、ただのうつけではない」
誰かが、ぽつりとそう言った。
その言葉は、すぐに広まったわけではない。
けれど、尾張の中で、同じような思いを抱く者は増えていった。
城の広間で、信長が座っている。
背筋を正しているわけではない。
立派な言葉を並べるわけでもない。
それでも、そこにいるだけで空気が変わった。
家臣たちは、以前のように軽く見ることができなくなっていた。
目の前の若い男が、何を考えているのか。
どこまで見ているのか。
誰にも、はっきりとはわからなかった。
だが、ひとつだけわかることがあった。
この男は、尾張の中だけを見ていない。
まだ小さな国。
まだ争いの絶えない土地。
まだ誰も、この場所から天下の気配など感じてはいない。
それでも信長の目は、ときおり尾張の外へ向いていた。
遠くの山の向こう。
見えない道の先。
まだ誰も歩いていない時代の方へ。
尾張をまとめることは、終わりではなかった。
それは、始まりだった。
小さな火が、ようやく形を持ちはじめていた。
その火を見て、笑う者は少なくなった。
その火を見て、背を向ける者も少なくなった。
そして、その火を見つめながら、ある者は気づきはじめていた。
この男についていけば、何かが変わるのではないか。
この男に逆らえば、すべてを失うのではないか。
尾張の空は、まだ広くはなかった。
けれど、その空の下で、時代の歯車が静かに軋みはじめていた。
うつけと呼ばれた男は、もう笑われるだけの存在ではなかった。
尾張をひとつにまとめながら、信長は少しずつ姿を変えていく。
若き当主から、国を動かす男へ。
奇妙な若者から、時代を裂く者へ。
その変化に、誰よりも早く気づいていたのは、信長自身だったのかもしれない。
夕暮れの城から、尾張の町を見下ろす。
田畑の向こうに、低い山並みが沈んでいる。
炊煙が細く上がり、人々の暮らしが静かに続いている。
信長は、黙ってそれを見ていた。
この小さな国から、何かが始まる。
まだ誰も知らない。
まだ誰も信じきれていない。
けれど、風だけは知っていた。
尾張の風は、もう以前と同じではなかった。
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