夜の長江が、赤く燃えていた。
川面を埋め尽くしていた曹操の船団は、いまや巨大な炎の群れとなっていた。
火は船から船へと走り、帆を焼き、綱を断ち、黒い煙を夜空へ巻き上げていく。
水の上を吹き抜ける風さえも熱を帯び、遠くから兵たちの叫びと、燃える木材の崩れる音が響いていた。
川岸に立つ劉備は、その光景を黙って見つめていた。
隣には諸葛亮がいる。
少し離れた場所では、孫権軍の旗が炎の風を受け、夜の闇の中で大きく揺れていた。
劉備は孫権と手を結び、南へ押し寄せた曹操の大軍に立ち向かった。
それは、国を持つ者同士の戦いの中へ、何も持たない男が加わった瞬間でもあった。
領地を得ても失い、城に入っても追われ、仲間とともに幾度も道をさまよってきた。
劉備の後ろには、いつも過去の敗北が続いていた。
しかし今夜だけは違った。
長江を覆う炎の向こうで、曹操の大軍が退いていく。
決して倒せないと思われていた敵が、夜明けを待たずに北へ逃れようとしている。
「終わりましたな」
諸葛亮が静かに言った。
だが劉備には、何かが終わったようには思えなかった。
むしろ、初めて何かが始まろうとしていた。
燃える船の向こうには、まだ暗い大地が広がっている。
そこには曹操が残した隙間があり、誰のものとも決まっていない城があり、人々が暮らす土地があった。
長く流浪してきた劉備にも、ようやく自分の旗を立てる場所が見え始めていた。
誰かに借りた城ではない。
追われるまでの仮の居場所でもない。
仲間たちと生き、人々を守り、自らの理想を形にする国。
その可能性が、燃える大河の向こうにかすかに浮かんでいた。
劉備は拳を握った。
勝利の喜びよりも、胸にあったのは重い覚悟だった。
これから先は、逃げるための道ではない。
自分の国へ向かう道になる。
炎に照らされた孫権軍の旗が、再び大きくはためいた。
やがて東の空が、わずかに白み始める。
赤壁の夜が終わろうとしていた。
劉備は燃える長江の向こうを見つめた。
そこにはまだ国も、城もなかった。
けれど彼の目には、長い流浪の果てに続く、新しい時代への道が確かに見えていた。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
PR
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿