寺の中は、息をする音さえ重く沈んでいた。
白い煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
線香の匂いが畳に染みつき、誰もが言葉を失ったまま、ただ前を見ていた。
父、織田信秀はもう動かない。
かつて尾張の地を駆け、敵を退け、家臣たちを従えた男は、今は静かな棺の中にいる。
その事実だけが、信長の前に冷たく置かれていた。
悲しいのか。
寂しいのか。
信長自身にも、それはよくわからなかった。
胸の奥にあったのは、涙よりも先に押し寄せてくる重さだった。
父が死んだ。
それはただ、ひとりの親を失ったということではない。
織田家という名が、父の肩から落ちた。
そして今、その重さが自分の方へ向かっている。
信長は、葬儀の場に並ぶ家臣たちの顔を見た。
誰も大きな声では語らない。
けれど、沈黙の奥には、いくつもの思いがあった。
あの若者に任せられるのか。
うつけと呼ばれた男に、織田家を背負えるのか。
尾張は、このまま乱れに呑まれるのではないか。
視線が、畳の上を這うように信長へ集まっていた。
悲しみを分け合う場でありながら、そこにはすでに次の力の流れがあった。
誰が従うのか。
誰が離れるのか。
誰が、この若き当主を見限るのか。
父の死は、静かな葬儀では終わらない。
これから始まる争いの合図でもあった。
信長は、棺の前に座った。
火の消えかけた香炉から、細い煙が揺れている。
その揺れは、まるで織田家そのもののようだった。
まだ形を保っている。
だが、少し風が吹けば、どこへ流れていくかわからない。
父は、強かった。
少なくとも、家臣たちはそう見ていた。
敵も、味方も、信秀という名を無視することはできなかった。
だが自分はどうだ。
信長は、自分の手を見た。
まだ若い手だった。
父のように、多くの戦を越えた手ではない。
家臣たちが安心して頭を下げる手でもない。
それでも、この手で受け取らなければならない。
誰かが信じてくれるのを待っている時間など、もう残されていなかった。
静けさの中で、誰かが小さく咳をした。
その音だけで、場の空気が揺れた。
信長は顔を上げた。
家臣たちの視線が、また一斉に向けられる。
その中に、優しさは少なかった。
哀れみも、期待も、疑いも、すべてが混じっていた。
信長は知っていた。
自分は、まだ誰からも本当には信じられていない。
父の息子だから、そこに座っているだけだ。
織田の血を引いているから、当主と呼ばれるだけだ。
だが、血だけで家は守れない。
名だけで人は従わない。
父の死によって、信長は初めて、その冷たさを肌で知った。
棺の向こうにいる父は、もう何も言わない。
叱りもしない。
守りもしない。
道を示すこともない。
信長は、ひとりだった。
広い寺の中に多くの人間がいるのに、信長だけが遠く離れた場所に立たされているようだった。
誰もいない野の真ん中で、巨大な城を背負えと言われているような孤独だった。
けれど、その孤独の奥で、何かが静かに燃え始めていた。
悲しみではない。
怒りでもない。
誰にも信じられていないなら、信じさせるしかない。
笑われているなら、笑った者たちの声を消すしかない。
織田家が重いなら、その重さごと前へ進むしかない。
信長は、ゆっくりと立ち上がった。
葬儀の静けさの中で、その動きだけが妙にはっきりと見えた。
家臣たちは、何も言わずにその姿を見ていた。
父を失った若者。
うつけと呼ばれた男。
まだ誰にも認められていない当主。
その背中に、織田家の重さが乗った。
信長は泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
ただ、静かに前を見ていた。
父の死によって空いた場所に、自分が立たされている。
その場所がどれほど冷たく、どれほど危ういものなのかを、信長は誰よりも早く感じていた。
尾張の空は、まだ低く曇っていた。
寺の外では、風が木々を揺らしている。
その音はまるで、これから来る嵐を告げているようだった。
織田信長は、父の死の前で初めて知った。
家を継ぐとは、守られることではない。
誰よりも先に、孤独の中へ歩き出すことなのだと。
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