2026年7月12日日曜日
劉備玄徳シリーズ③ 黄巾の乱へ
土煙の向こうに、黄色い布が見えた。
一つではない。
荒れた道の先に、黄巾を頭へ巻いた兵たちが、揺れる影のように集まっていた。
槍の穂先が朝の光を返し、遠くから低い鬨の声が聞こえてくる。
その声を聞いた瞬間、劉備の足が止まった。
これまで何度も、乱れた世を正したいと口にしてきた。
苦しむ民を救いたい。
誰もが安心して暮らせる世を取り戻したい。
その思いに偽りはなかった。
だが、目の前に広がっているのは、言葉ではなかった。
土煙の中にいるのは、倒さなければならない敵だった。
そして、自分の後ろに立っているのは、守らなければならない人々だった。
劉備が集めた義勇兵たちは、誰もが立派な武将ではない。
農具を打ち直した槍を持つ者。
欠けた剣を腰へ差している者。
薄い革を鎧の代わりに体へ巻きつけている者。
粗末な武具を握る手は震え、乾いた唇を何度もなめる者もいた。
昨日まで畑を耕していた若者がいる。
家族へ何も告げずに村を出た男もいる。
彼らは劉備の言葉を信じ、ここまでついてきた。
「世を救う」
あの言葉を口にしたとき、劉備はもっと明るい景色を思い描いていた。
正しい志を掲げれば、人は集まり、乱れた世も少しずつ変わっていくのだと思っていた。
だが今、その言葉は何十人もの命となって、彼の背中にのしかかっていた。
進めば、誰かが死ぬかもしれない。
退けば、黄巾の兵は次の村へ向かうだろう。
どちらを選んでも、救えない者がいる。
劉備は腰の剣へ手を置いた。
新品ではない。
名のある武将から授けられたものでもない。
それでも、今はこの剣を抜かなければならなかった。
「兄者」
低い声が、迷いの中へ届いた。
隣には関羽が立っていた。
長いひげを風に揺らし、遠くの黄巾兵を静かに見つめている。
その顔に恐れはなかった。
だが、戦いを楽しむような色もなかった。
関羽もまた、これから起こることの重さを知っているように見えた。
反対側では、張飛が蛇矛を強く握っていた。
いつものように大声を上げることもなく、ただ歯を食いしばっている。
張飛の後ろでは、若い義勇兵が震えていた。
それに気づいた張飛は、振り返らずに言った。
「俺たちが前にいる。勝手に飛び出すな」
荒々しい声だった。
けれど、その言葉は義勇兵たちを落ち着かせるためのものだった。
劉備は二人の横顔を見た。
桃園で誓いを交わしたとき、三人は同じ道を歩くと決めた。
だが、その道がこれほど早く、血と土煙の中へ続くとは思っていなかった。
遠くで太鼓が鳴った。
黄巾を巻いた兵たちが動き始める。
黄色い布が風に揺れ、土を踏み鳴らす音が少しずつ大きくなってきた。
義勇兵たちの間に緊張が走る。
槍を落としかける者がいた。
逃げ道を探すように、後ろを見る者もいた。
劉備の胸にも、逃げたいという思いが浮かんだ。
ここで背を向ければ、まだ戻れる。
母のいる家へ帰り、むしろを編んで暮らすこともできる。
乱世を変えるなどという大きな夢を捨てれば、少なくとも今日、誰かを死なせずに済むかもしれない。
けれど、黄巾の兵が通り過ぎた村を、劉備は見ていた。
焼けた家。
踏み荒らされた畑。
何も言わず、道端へ座り込んでいた老人。
泣く力さえ失っていた子ども。
戦わなければ救えない者がいる。
戦えば守れない者がいる。
その二つの現実の間に立つことが、乱世へ足を踏み入れるということなのだ。
劉備は、ようやくそれを知った。
「関羽、張飛」
声が少し震えた。
二人は何も言わず、劉備を見た。
劉備は一度だけ目を閉じた。
迷いは消えなかった。
恐れも残っていた。
それでも、剣を抜いた。
「行こう」
短い言葉だった。
世を救うとも、正義のためとも言わなかった。
今の劉備には、その言葉を軽々しく口にすることができなかった。
関羽が武器を構えた。
張飛が蛇矛を前へ向けた。
三人の背後で、粗末な武具を持つ義勇兵たちも、震えながら列を作った。
土煙が近づいてくる。
黄巾の波が押し寄せてくる。
劉備は先頭に立ち、一歩を踏み出した。
何も持たなかった若者が、初めて戦乱の中へ入っていく。
その一歩は、英雄の華やかな始まりではなかった。
誰かの命を背負い、誰かの命を奪うかもしれない道を選ぶ、重く苦しい一歩だった。
世を救うという言葉の本当の重さを、劉備は土煙の立つ道の上で、初めて知った。
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