2026年7月19日日曜日

三国志 劉備玄徳シリーズ㉒ 白帝城の別れ

三国志 劉備玄徳シリーズ 白帝城の別れ

白帝城は、深い霧に包まれていた。

城壁も、楼閣も、遠く連なる山々も、白い靄の向こうへ静かに沈んでいる。

その下では、長江が絶え間なく流れていた。

水の音だけが、過ぎ去った年月を数えるように、かすかに城まで届いていた。

薄暗い部屋の中で、劉備は病床に横たわっていた。

夷陵から逃れた日から、身体の熱は下がらなかった。

息をするたび、胸の奥に重い痛みが残った。

もう一度立ち上がる力が、自分の中に残されていないことを、劉備は誰よりもよく知っていた。

枕元には、諸葛亮が座っていた。

いつもの羽扇は膝の上に置かれたまま、動かなかった。

劉備が目を開けるたび、諸葛亮は何も言わず、その顔を見つめていた。

二人の間には、多くの言葉よりも長い沈黙があった。

劉備の目に、霧の向こうの景色が浮かんだ。

桃園で酒を酌み交わした日のこと。

赤い顔で大きく笑う関羽。

杯を掲げ、誰よりも強い声で誓いを口にした張飛。

三人には、国も兵もなかった。

ただ、同じ道を歩くという約束だけがあった。

それだけで、どこまでも進めると思っていた。

戦に敗れ、城を失い、家族と離れ、何度もすべてを失った。

それでも関羽と張飛がそばにいれば、劉備はまた立ち上がることができた。

だが、今はもう二人ともいない。

関羽の静かな声も、張飛の荒々しい笑い声も、霧の向こうへ消えてしまった。

劉備はゆっくりと手を伸ばした。

諸葛亮が、その細くなった手を両手で受け止めた。

「孔明」

声は弱く、長江の水音に消えそうだった。

劉備は息子の劉禅を託した。

そして、自らが築いた蜀漢の未来を託した。

皇帝としての命令ではなかった。

長い旅の終わりに立つ一人の男が、最後まで信じた仲間へ差し出す願いだった。

諸葛亮は深く頭を下げた。

その肩に、国の重さが静かに落ちた。

劉備は天井を見つめながら、かすかに笑った。

ようやく、自分の手から夢を離すことができたのかもしれない。

国を得た。

皇帝の座にも就いた。

だが、そのために失ったものは、あまりにも多かった。

もし関羽と張飛が生きていたなら、自分はどのような最期を迎えていただろう。

そんな思いが胸をよぎったが、もう答えを求める力はなかった。

窓の外で、霧がわずかに動いた。

長江の水面に、淡い朝の光が落ち始めていた。

劉備は目を閉じた。

耳の奥で、遠い日の笑い声が聞こえたような気がした。

関羽が呼んでいる。

張飛が待ちきれずに騒いでいる。

三人で歩いた道が、霧の向こうへ続いている。

劉備の手から、静かに力が抜けていった。

諸葛亮は、その手を離さなかった。

白帝城の下では、長江が何事もなかったように流れ続けていた。

何度倒れても立ち上がった男は、最後にもう一度立ち上がることはなかった。

その代わり、自らの夢を仲間の手に残した。

劉備玄徳の旅は、霧の白帝城で終わった。

けれど、彼が託した未来だけは、諸葛亮とともに、まだ長い道を歩き始めようとしていた。


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