山は、まるで劉備たちを拒むように連なっていた。
細く険しい道は、深い谷に沿って何度も折れ曲がり、軍勢の先は濃い霧の中へ消えている。
馬の蹄が湿った岩を踏み、兵たちの鎧が鈍い音を立てた。
少し足を滑らせれば、谷底まで落ちてしまう。
それでも軍勢は、一歩ずつ山深い蜀へ進んでいた。
劉備は馬上から、霧の向こうを見つめていた。
この道の先に、自分たちの国がある。
そう考えるたび、胸の奥に小さな熱が生まれた。
だが同時に、その熱を消そうとする声も聞こえてくる。
益州を治める劉璋は、同じ劉氏の一族である。
劉備は、その劉璋から招きを受けていた。
北から迫る脅威を退けるため、力を貸してほしい。
同族を助けるために蜀へ入る。
それが、劉備が掲げた理由だった。
やがて霧の中から、数騎の馬が姿を現した。
先頭の男が馬を降り、深く頭を下げる。
劉璋の使者だった。
「益州の民は、玄徳様のお越しを心よりお待ちしております」
その言葉に、周囲の兵たちはわずかに表情を明るくした。
長い流浪を続けてきた彼らにとって、歓迎される土地はあまりにも久しぶりだった。
山を越えると、景色は大きく変わった。
険しい峰々に守られた盆地には、豊かな水が流れていた。
広い田畑には青い作物が揺れ、村からは炊事の煙が静かに昇っている。
倉には穀物が積まれ、道を行く人々の顔にも戦乱の影は薄かった。
ここには土地がある。
兵を養う食糧がある。
民を守るための山と川がある。
そして何より、長い間求め続けてきた国の形があった。
劉備は、その豊かさを前にして言葉を失った。
新野を失い、荊州に身を寄せ、何度も自分の旗を下ろしかけた。
民を連れて逃げても、守る城はなかった。
家臣たちが命を懸けても、帰る国はなかった。
だが、この益州を得ることができれば、すべてが変わる。
劉備の旗の下で、民を守る国を築くことができる。
曹操に対抗し、漢の世を立て直すための力を持つこともできる。
それは、長い流浪の果てに見えた希望だった。
しかし、その希望を手に入れるためには、劉璋から土地を奪わなければならない。
自分を信じ、招き入れた同族から。
助けを求めて門を開いた者から。
夜、劉備は陣幕の外に立っていた。
山から流れてきた霧が、灯火の周りを白く包んでいる。
遠くでは、益州の村の明かりが小さく揺れていた。
あの明かりを守るために来たのか。
それとも、自分のものにするために来たのか。
劉備には、もう分からなくなっていた。
仁義を捨てれば、自分は曹操と何が違うのか。
だが仁義だけを守り、またすべてを失えば、ついてきた者たちに何を残せるのか。
理想だけでは、兵は養えない。
優しさだけでは、城は守れない。
正しいだけでは、国を得ることはできない。
劉備は、その現実を誰よりも知っていた。
知っていたからこそ、決断できずにいた。
翌朝、霧はさらに深くなっていた。
劉璋の使者が先導し、益州へ続く道を進んでいく。
劉備の軍勢も、その後に続いた。
馬を止めようと思えば、まだ止められた。
荊州へ戻り、劉璋との約束だけを果たす道も残されていた。
だが劉備は、手綱を引かなかった。
背後には、関羽や張飛、諸葛亮、そして長い流浪をともにしてきた兵と民がいる。
彼らのための国が必要だった。
それが同族の土地を奪うことになろうとも、前へ進まなければならなかった。
劉備は静かに馬を進めた。
その顔には、国を得ようとする者の覚悟と、仁義を失うことを恐れる迷いが同時に浮かんでいた。
山道の先には、豊かな益州が広がっている。
だが劉備にとって、その道は新しい国へ続く道であると同時に、これまで信じてきた自分自身を裏切る道でもあった。
深い霧の中、軍勢は進んでいく。
助けるために入った土地を、やがて奪うために。
仁義を掲げてきた男は、ついに理想だけでは越えられない山の前に立っていた。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
PR
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿