2026年7月11日土曜日
劉備玄徳シリーズ① むしろを売っていた男
朝の光が、古びた家の隙間から細く差し込んでいた。
若い劉備は、まだ薄暗い部屋の中で、黙ってむしろを編んでいた。
乾いた藁をそろえ、指で押さえ、一本ずつ重ねていく。
何度も繰り返してきた仕事だった。
指の節は硬くなり、爪の間には細かな藁くずが入り込んでいる。
それでも手を止めることはできなかった。
むしろを売らなければ、今日の食べ物を買うことができない。
家の奥では、母が小さな釜に火を入れていた。
鍋の中にあるのは、わずかな粟と水だけだった。
「今日は町へ行くのかい」
母の声に、劉備は顔を上げた。
「これを編み終えたら行きます」
そう答えると、母は何も言わず、弱い火を見つめた。
劉備の家は貧しかった。
立派な門もなければ、広い畑もない。
兵も、馬も、家臣もいなかった。
あるのは、雨風をどうにか防ぐ家と、古びた道具、そして母と暮らす静かな日々だけだった。
劉備は漢王朝の血を引く者だといわれていた。
遠い昔の皇族につながる家柄だという話を、幼いころから何度も聞かされていた。
しかし、その血が腹を満たしてくれることはなかった。
寒い夜に家を暖めることもなければ、破れた衣を新しくしてくれることもなかった。
皇帝と同じ一族だといわれても、劉備の手の中にあるのは、細い藁だけだった。
やがて、むしろが一枚編み上がった。
劉備はそれを丸め、背負うための縄でしっかりと結んだ。
戸を開けると、冷たい朝の空気が入ってきた。
道の向こうには、いつもと変わらない村の景色が広がっている。
土の道を歩く農民。
荷車を引く老人。
井戸のそばで話す女たち。
だが、その表情は以前よりも暗かった。
税が重くなった。
役人が金を求めている。
盗賊が村を襲った。
食べるものを失った者たちが、黄色い布を頭に巻いて集まり始めた。
そんな話が、風に運ばれるように各地から届いていた。
遠くで何かが崩れ始めている。
その音はまだ小さかったが、耳を澄ませば確かに聞こえた。
劉備は町へ向かう道を歩いた。
背中のむしろは軽くなかった。
けれど、それ以上に重いものが胸の中にあった。
道端には、土地を捨ててきたらしい家族が座り込んでいた。
父親はうつむき、母親は痩せた子どもを抱いている。
劉備は足を止めた。
声をかけようとしたが、何を言えばよいのか分からなかった。
自分の家にも、分けられるほどの食べ物はない。
助けたいと思っても、何も持っていなかった。
劉備は静かに頭を下げ、再び歩き出した。
町へ入ると、人々の声が聞こえてきた。
役人を責める声。
皇帝を嘆く声。
世の中はもう長く続かないのではないかと、不安そうに語る声。
劉備は道の端にむしろを並べ、客を待った。
通りを行く人々を眺めながら、何度も同じことを考えた。
この乱れた世の中で、自分にできることはないのだろうか。
漢王朝の血を引いているというだけでは、誰も救うことはできない。
名も、財も、力もない。
剣を取ったとしても、従う兵など一人もいない。
それでも劉備は、何もせずに目をそらすことだけはできなかった。
夕方、売れ残ったむしろを背負い、劉備は家へ戻った。
夕日が土の道を赤く染めていた。
遠い空には、細い煙が上がっていた。
どこかの村で火が出たのかもしれない。
あるいは、すでに争いが始まっているのかもしれなかった。
家の前では、母が劉備の帰りを待っていた。
「お帰り」
その声を聞き、劉備は少しだけ笑った。
まだ自分には、守らなければならないものがある。
だが、いつの日か、それだけでは足りなくなる気がしていた。
この家だけではなく、苦しんでいる人々を守る道が、どこかにあるのではないか。
その道がどこへ続くのか、劉備にはまだ分からなかった。
国もない。
兵もいない。
手にしているのは、売れ残ったむしろだけだった。
それでも青年は、遠くから近づいてくる乱世の足音に耳を澄ませていた。
何も持たなかった男が、自分の進む道を探し始めた朝だった。
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