2026年7月14日火曜日
三国志 劉備玄徳シリーズ⑤ 徐州を託された男
部屋には、わずかな灯火しか残されていなかった。
風が戸の隙間を抜けるたび、机の上の炎が細く揺れ、病床に横たわる陶謙の顔へ淡い影を落とした。
その呼吸は浅く、ひとつ息をするだけでも、長い道を歩いているように見えた。
劉備は寝台から少し離れた場所に座り、言葉を待っていた。
陶謙が人払いを命じた理由を、劉備はすでに察していた。
だからこそ、顔を上げることができなかった。
「玄徳殿」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
「徐州を……頼みたい」
劉備はすぐには答えなかった。
灯火の向こうにある陶謙の目は、病に濁りながらも、まだまっすぐに劉備を見ていた。
そこにあったのは、領地を譲る者の未練ではない。
あとに残される人々を思う、ひとりの老人の不安だった。
「私には、そのような資格はありません」
劉備は静かに首を振った。
徐州には城がある。
兵がいる。
田畑があり、商人が行き交う道があり、その土地で生まれ、その土地で死んでいく無数の民がいる。
それは、ひとりの男が喜んで受け取れるほど軽いものではなかった。
劉備はこれまで、自分のものと呼べる土地を持たなかった。
戦が起これば兵を集め、敗れれば別の土地へ向かった。
関羽と張飛が隣にいても、三人が帰るべき城はなかった。
何も持たないことに慣れていた。
だから、失うことの恐ろしさも知らずにいられた。
だが徐州を受け取れば、もう自分ひとりの命ではなくなる。
陶謙はゆっくりと息を吐いた。
「資格がある者に託すのではない」
その声は弱かったが、言葉だけは揺れなかった。
「託したいと思える者に、託すのだ」
劉備は目を閉じた。
その日の夕方、城へ入る前に見た景色が浮かんだ。
城外の畑では、老いた男が土を耕していた。
道端では、母親が幼い子どもの手を引いていた。
壊れた荷車を直す者がいて、井戸から水を運ぶ娘がいて、夕食の煙が小さな家々から上がっていた。
彼らは劉備の名を知っているかもしれない。
知らないかもしれない。
それでも、徐州を治める者が変われば、彼らの明日も変わる。
戦が近づけば畑を捨て、城が破られれば家を失い、判断を誤れば多くの命が消える。
それらすべてが、これから自分の決断へつながっていく。
劉備は膝の上で、静かに拳を握った。
欲しかったはずの場所だった。
いつか自分の理想を形にするため、守るべき土地が必要だと思っていた。
しかし、差し出された徐州を前にして、胸に湧いたのは喜びではなかった。
逃げることのできない重さだった。
「民を、守っていただきたい」
陶謙の声が、再び聞こえた。
その言葉は命令ではなく、願いだった。
劉備は長く沈黙したあと、病床の前へ進んだ。
そして深く頭を下げた。
「私にできる限りのことをいたします」
徐州を得るとは言わなかった。
国を受け取るとも言わなかった。
ただ、そこに暮らす人々を背負うことだけを受け入れた。
陶謙は小さくうなずき、安心したように目を閉じた。
部屋の灯火が、また風に揺れた。
やがて劉備が外へ出ると、夜の城下は静まり返っていた。
遠くの城壁の向こうには、民の家にともる小さな明かりがいくつも見えた。
これまでの劉備なら、その灯りを旅の途中で眺めるだけだった。
だが今夜からは違う。
ひとつひとつの灯りが消えないように、守らなければならない。
何も持たなかった男は、初めて国を託された。
その夜、劉備の心にあったのは、新たな城を得た喜びではなかった。
人から信じられた者だけが知る、深く静かな恐れだった。
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