2026年7月18日土曜日

三国志 劉備玄徳シリーズ⑨ 荊州に流れ着いた男

三国志 劉備玄徳シリーズ 荊州に流れ着いた男
新野城に、秋の風が吹いていた。

城壁の上を抜けた風は、乾いた草の匂いを運び、劉備の衣の裾を静かに揺らしていく。

戦の音は聞こえない。
兵たちの怒号も、馬のいななきも、燃える城の音もなかった。

新野は穏やかだった。

袁紹のもとを離れ、行く先を失った劉備を、荊州の劉表は受け入れた。
小さな城と、身を休める場所を与えてくれた。

長い流浪の果てに、ようやくたどり着いた静かな土地だった。

それなのに、劉備の心は休まらなかった。

城の高台に立ち、劉備は遠くを見つめていた。
秋の空は高く、雲はゆっくりと北へ流れている。

その向こうに何があるのか。

自分が手に入れるはずだった国があるのか。
それとも、また敗北が待っているだけなのか。

劉備には分からなかった。

ただ、年月だけが過ぎていくことは分かった。

若い頃は、何度敗れても立ち上がることができた。
失った兵は集め直せばよかった。
失った城は、いつか別の城を手に入れればよかった。

だが、失った時間だけは戻らない。

鏡を見るたびに、顔には新しい皺が増えていた。
馬に乗れば、以前よりも疲れが残るようになった。

天下を語った日から、どれほどの年月が過ぎたのだろう。

それでも劉備には、自分の国がなかった。

誰かの城に身を寄せ、誰かの兵を借り、誰かの許しを得て生きている。

漢王朝のため。
苦しむ民のため。

そう語り続けてきた言葉が、秋の風の中でひどく遠く感じられた。

「兄者」

後ろから、低い声がした。

振り返らなくても、関羽だと分かった。
その隣には張飛もいる。

二人は何も尋ねなかった。

いつまで新野にいるのか。
次はどこへ向かうのか。
本当に天下を望んでいるのか。

劉備自身にも答えられないことを、二人は聞かなかった。

関羽は黙って遠くを見た。
張飛は腕を組み、吹き抜ける風に顔をしかめた。

あの日、三人で誓った夢は、まだ消えてはいない。

だが、夢だけを抱えて歩くには、あまりにも長い道だった。

徐州を失った。
妻子と離れた。
兵を失い、城を失い、何度も逃げた。

そのたびに関羽と張飛は戻ってきた。

何も持たない劉備のそばに、二人だけは残り続けた。

それがうれしくもあり、苦しくもあった。

自分が夢を捨てれば、この二人も戦わずに済むのではないか。
静かな土地で、穏やかに年を重ねることもできるのではないか。

そんな考えが、劉備の胸をよぎることがあった。

けれど、そのたびに思い出す。

戦火に追われた民の顔。
助けを求めて伸ばされた手。
自分の名を信じ、ついてきた者たちの背中。

ここで終われば、これまで失ったものは何だったのか。

劉備はゆっくりと目を閉じた。

秋の風が三人の間を通り抜けていく。

新野城で過ごす日々は静かだった。
戦もなく、追手もなく、眠れないほどの恐怖もない。

それでも劉備は、この穏やかさを安らぎとは思えなかった。

ここは旅の終わりではない。

ただ、次に歩き出す力を失った男が、立ち止まっている場所だった。

「もう少しだけ、ここにいよう」

劉備は小さく言った。

関羽も張飛も答えなかった。
ただ、兄のそばに立ち続けた。

遠くの山へ、夕日が沈み始めていた。

劉備はその光を見つめながら、自分に残された年月を考えていた。

もう若くはない。
何度でもやり直せるほど、時間は残されていない。

それでも、まだ終われなかった。

国を持たず、帰る場所もなく、夢だけを捨てられない男は、荊州の小さな城に立っていた。

秋の風は、答えを運んではこなかった。

ただ三人の髪を揺らし、過ぎていく年月の冷たさだけを、静かに知らせていた。


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