新野城に、秋の風が吹いていた。
城壁の上を抜けた風は、乾いた草の匂いを運び、劉備の衣の裾を静かに揺らしていく。
戦の音は聞こえない。
兵たちの怒号も、馬のいななきも、燃える城の音もなかった。
新野は穏やかだった。
袁紹のもとを離れ、行く先を失った劉備を、荊州の劉表は受け入れた。
小さな城と、身を休める場所を与えてくれた。
長い流浪の果てに、ようやくたどり着いた静かな土地だった。
それなのに、劉備の心は休まらなかった。
城の高台に立ち、劉備は遠くを見つめていた。
秋の空は高く、雲はゆっくりと北へ流れている。
その向こうに何があるのか。
自分が手に入れるはずだった国があるのか。
それとも、また敗北が待っているだけなのか。
劉備には分からなかった。
ただ、年月だけが過ぎていくことは分かった。
若い頃は、何度敗れても立ち上がることができた。
失った兵は集め直せばよかった。
失った城は、いつか別の城を手に入れればよかった。
だが、失った時間だけは戻らない。
鏡を見るたびに、顔には新しい皺が増えていた。
馬に乗れば、以前よりも疲れが残るようになった。
天下を語った日から、どれほどの年月が過ぎたのだろう。
それでも劉備には、自分の国がなかった。
誰かの城に身を寄せ、誰かの兵を借り、誰かの許しを得て生きている。
漢王朝のため。
苦しむ民のため。
そう語り続けてきた言葉が、秋の風の中でひどく遠く感じられた。
「兄者」
後ろから、低い声がした。
振り返らなくても、関羽だと分かった。
その隣には張飛もいる。
二人は何も尋ねなかった。
いつまで新野にいるのか。
次はどこへ向かうのか。
本当に天下を望んでいるのか。
劉備自身にも答えられないことを、二人は聞かなかった。
関羽は黙って遠くを見た。
張飛は腕を組み、吹き抜ける風に顔をしかめた。
あの日、三人で誓った夢は、まだ消えてはいない。
だが、夢だけを抱えて歩くには、あまりにも長い道だった。
徐州を失った。
妻子と離れた。
兵を失い、城を失い、何度も逃げた。
そのたびに関羽と張飛は戻ってきた。
何も持たない劉備のそばに、二人だけは残り続けた。
それがうれしくもあり、苦しくもあった。
自分が夢を捨てれば、この二人も戦わずに済むのではないか。
静かな土地で、穏やかに年を重ねることもできるのではないか。
そんな考えが、劉備の胸をよぎることがあった。
けれど、そのたびに思い出す。
戦火に追われた民の顔。
助けを求めて伸ばされた手。
自分の名を信じ、ついてきた者たちの背中。
ここで終われば、これまで失ったものは何だったのか。
劉備はゆっくりと目を閉じた。
秋の風が三人の間を通り抜けていく。
新野城で過ごす日々は静かだった。
戦もなく、追手もなく、眠れないほどの恐怖もない。
それでも劉備は、この穏やかさを安らぎとは思えなかった。
ここは旅の終わりではない。
ただ、次に歩き出す力を失った男が、立ち止まっている場所だった。
「もう少しだけ、ここにいよう」
劉備は小さく言った。
関羽も張飛も答えなかった。
ただ、兄のそばに立ち続けた。
遠くの山へ、夕日が沈み始めていた。
劉備はその光を見つめながら、自分に残された年月を考えていた。
もう若くはない。
何度でもやり直せるほど、時間は残されていない。
それでも、まだ終われなかった。
国を持たず、帰る場所もなく、夢だけを捨てられない男は、荊州の小さな城に立っていた。
秋の風は、答えを運んではこなかった。
ただ三人の髪を揺らし、過ぎていく年月の冷たさだけを、静かに知らせていた。
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