2026年7月7日火曜日
武田信玄シリーズ⑪ 西へ向かう虎
夕暮れの街道に、赤い旗が揺れていた。
風は冷たく、山の向こうから夜の色を連れてきていた。
その中を、武田の軍勢は西へ進んでいた。
槍の穂先は薄い夕日を受け、馬の息は白く、兵たちの影は長く地面に伸びていた。
誰も大声を出さなかった。
ただ、無数の足音と鎧の擦れる音だけが、街道を重く満たしていた。
先頭近くに、武田信玄がいた。
かつて甲斐の山々を背に、何度も戦場を踏み越えてきた虎。
その姿は老いていた。
若い日のような鋭さだけではない。
長い歳月を呑み込み、勝利も敗北も、人の死も国の重さも、その身の奥に沈めたような静けさがあった。
信玄は前を見ていた。
その先には、徳川家康がいる。
さらにその向こうには、織田信長がいる。
時代の真ん中に立ち、天下へ手を伸ばそうとする男たち。
その背に、甲斐の虎が迫っていた。
家康は、まだ若かった。
だが弱い男ではなかった。
三河の地に根を張り、苦しみに耐え、敗れても折れず、いつか大きなものになる影を持っていた。
その家康の前に、信玄は現れようとしていた。
まるで山そのものが動き出したように。
赤い旗を連ね、鉄のような軍勢を率い、夕暮れの街道を静かに下っていく。
兵たちは感じていた。
今、自分たちはただの戦へ向かっているのではない。
時代の奥へ踏み込んでいるのだと。
この進軍の先で、徳川は震える。
織田もまた、甲斐から吹いてくる風の冷たさを知る。
信玄という名が、西の空へ黒い雲のように広がっていく。
天下。
その言葉は、誰も軽々しく口にしなかった。
だが、誰の胸の中にもあった。
もし、このまま進めば。
もし、徳川を越え、織田へ届けば。
もし、この虎が京へ向かえば。
武田の赤い旗が、天下の風に鳴る日が来るかもしれない。
けれど、夕暮れは美しすぎた。
あまりにも静かで、あまりにも赤かった。
沈む日の色は、勝利の色にも見えた。
同時に、血の色にも見えた。
信玄の背には、誰にも見えない影が寄り添っていた。
それは敵ではなかった。
徳川でも、織田でもなかった。
もっと遠く、もっと冷たいものだった。
死の気配。
天下に近づけば近づくほど、それは薄い霧のように濃くなっていった。
誰も気づかないふりをしていた。
兵たちは旗を見上げ、武田の強さを信じた。
武将たちは前だけを見つめた。
だが、信玄だけは知っていたのかもしれない。
人の命が、いかに短いものかを。
どれほど強く願っても、時だけは止まらないことを。
馬上の信玄は、静かだった。
勝利を誇るでもなく、怒りを燃やすでもなく、ただ西を見ていた。
その目には、家康の城が映っていたのか。
信長の天下が映っていたのか。
それとも、まだ誰も見たことのない、武田の世が映っていたのか。
夕闇が深くなる。
赤い旗は、夜の中でさらに濃く見えた。
火のようであり、傷のようでもあった。
武田軍は進む。
甲斐の山を離れ、信濃を越え、いよいよ西へ。
徳川家康の時代へ。
織田信長の時代へ。
そして、天下という大きすぎる夢のほうへ。
その歩みは重く、確かだった。
誰も止められないように見えた。
けれど、遠い空の端には、すでに夜が待っていた。
甲斐の虎は、西へ向かった。
天下は、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。
だがそのすぐそばに、誰にも追い払えない影が、静かに寄り添っていた。
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