2026年7月13日月曜日

劉備玄徳シリーズ④ 名もなき将の戦い

劉備玄徳シリーズ 名もなき将の戦い

雨は、朝から街道を濡らし続けていた。

土は深く沈み、兵たちの草履には重い泥がまとわりついていた。

黄巾の乱が終わったあとも、劉備たちの戦いは終わらなかった。

敵の旗が消えただけで、進むべき道が見えたわけではない。

劉備の後ろでは、疲れた兵たちがうつむきながら歩いていた。

鎧には傷が残り、衣は雨を吸って重くなっている。

誰も話さなかった。

話す力さえ、雨に奪われてしまったようだった。

そのさらに後ろを、関羽と張飛が黙って歩いていた。

張飛は何度も何かを言いかけたが、そのたびに口を閉じた。

関羽も前だけを見ていた。

二人には分かっていた。

劉備が背負っているものは、濡れた鎧よりも重かった。

戦場では、確かに功績を挙げた。

逃げる者をまとめ、崩れた陣を立て直し、命を懸けて敵と戦った。

それでも役人たちが記録したのは、大きな軍を率いた将軍たちの名前ばかりだった。

劉備という名は、紙の端に小さく残ることさえなかった。

やがて一行は、街道沿いの小さな役所へたどり着いた。

低い塀に囲まれた、雨漏りのする古い建物だった。

劉備は濡れた衣を整え、役人の前に立った。

役人は机の向こうで竹簡を眺めたまま、顔を上げようとしなかった。

「劉備という名は、ここにはない」

冷たい声だった。

劉備は、自分がどこで戦ったのかを話した。

何人の兵を率い、どれほど危険な場所を守ったのかを伝えた。

しかし役人は、小さく息を吐いただけだった。

「その程度の者は、いくらでもいる」

言葉は短く、扉を閉ざす音のように響いた。

張飛の拳が震えた。

関羽は黙ったまま、その腕を押さえた。

劉備は怒らなかった。

怒ることさえ許されないほど、自分の立場が小さいことを知っていた。

与えられたのは、名も知られていない土地の小さな役職だった。

兵も領地もなく、雨を防ぐ屋根さえ十分ではない場所だった。

それでも劉備は、その役目を受けた。

そこで民の話を聞き、壊れた道を直し、少ない食料を分けた。

だが、ようやく何かが始まろうとしたころ、役職は突然失われた。

理由は告げられなかった。

代わりの者が来るから、出ていけと言われただけだった。

そしてまた、雨の街道が始まった。

どこへ向かうのか。

次に役目を得られるのか。

兵たちに食べさせるものが残っているのか。

劉備にも分からなかった。

分からないまま、先頭を歩かなければならなかった。

立ち止まれば、後ろにいる者たちも止まってしまう。

振り返れば、自分を信じて歩く関羽と張飛がいる。

だから劉備は、雨の向こうを見つめ続けた。

大きな旗もなかった。

立派な城もなかった。

天下に名を知られた将でもなかった。

戦っても忘れられ、働いても奪われ、進むたびに道は遠くなった。

夜になると、劉備は一人で小さな火を見つめた。

自分の志が、ただの夢ではないのかと思うこともあった。

乱れた世を正したいという願いが、身の程を知らぬ望みのように感じられる夜もあった。

それでも朝が来ると、劉備は立ち上がった。

濡れた草履を履き、剣を腰に差し、何も見えない街道へ戻った。

その後ろには、関羽と張飛がいた。

二人は励ます言葉を口にしなかった。

ただ、離れなかった。

名もなき将の歩みを、同じ雨に濡れながら追い続けた。

劉備の戦いは、まだ誰の記憶にも残っていなかった。

だが、認められない日々の中でも、捨てなかったものがある。

地位を失っても、居場所を奪われても、自分が進むと決めた道だけは手放さなかった。

雨の街道には、終わりが見えない。

それでも劉備は歩いた。

いつか自分の名が天下に届くからではない。

ここで歩くことをやめれば、自分が自分でなくなってしまうからだった。


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