2026年7月19日日曜日

三国志 劉備玄徳シリーズ⑰ 関羽を失った日

三国志 劉備玄徳シリーズ 関羽を失った日

成都の空は、朝から重く曇っていた。

雨が降るわけでもなく、風が吹くわけでもない。

ただ灰色の雲だけが宮殿の上に低く垂れ込め、何かが届くのを待っているようだった。

その知らせは、泥に汚れた一人の使者によって運ばれてきた。

使者は広間の中央にひざまずき、震える声で荊州の陥落を告げた。

孫権の軍が攻め込み、城は奪われたこと。

味方の多くが離れ、関羽が逃げ場を失ったこと。

そして最後に、関羽が捕らえられ、命を落としたことを告げた。

広間は静まり返った。

誰も顔を上げることができなかった。

劉備は玉座に座ったまま、何も言わなかった。

聞こえなかったのではない。

言葉の一つ一つが、胸の奥へ沈んでいくのを止められなかったのだ。

荊州を失った。

国にとって、それはあまりにも大きな損失だった。

しかし、そのときの劉備に領地のことを考える余裕はなかった。

彼が失ったのは、城でも土地でもなかった。

まだ何者でもなかったころから、隣を歩いてきた男だった。

気がつけば、劉備の心は遠い昔へ戻っていた。

桃の花が風に揺れている。

若かった三人は、何も持っていなかった。

国も兵も、立派な名声もなかった。

それでも同じ志を抱き、同じ空の下で生き、同じ日に死のうと誓った。

張飛の大きな声が聞こえる。

その隣には、長い髭を撫でながら静かに立つ関羽がいた。

関羽はいつも多くを語らなかった。

だが、劉備が振り返れば、そこには必ず彼がいた。

敗れて逃げる夜も、寒さに震える道も、誰にも相手にされなかった日々も、関羽は何も言わずについてきた。

劉備がすべてを失うたび、関羽だけは失われなかった。

だから劉備は、どこかで信じていた。

どれほど遠く離れても、いつかまた三人で並べるのだと。

だが、その日はもう来ない。

使者が下がったあとも、劉備は長い間動かなかった。

やがて広間に夕暮れの光が差し込み、家臣たちの影が床に細長く伸びた。

劉備の近くには、いつも関羽が立っていた場所があった。

戦の報告を聞くときも、これからの国を語るときも、関羽はその場所で静かに腕を組んでいた。

今、その場所には誰もいなかった。

ただ空席だけが残り、二度と戻らない男の姿を浮かび上がらせていた。

劉備は、その空席から目を離すことができなかった。

ようやく蜀の地を得た。

長い流浪を終え、自らの国を築いた。

かつて夢に見た場所へ、ようやくたどり着いたはずだった。

それなのに今、劉備の胸に喜びはなかった。

国を得たあとで、最も大切なものを失った。

玉座は広く、宮殿は立派で、多くの兵が彼の命令を待っている。

けれど桃園で誓った三人のうち、一人はもうこの世にいない。

その夜、劉備は眠らなかった。

灯火の消えかけた部屋で、関羽の名を何度も心の中で呼んだ。

悲しみは声にならず、涙もすぐには流れなかった。

胸の中にあるのは、深く冷たい穴だけだった。

だが夜が更けるにつれ、その冷たさの奥に別のものが生まれ始めた。

なぜ関羽が死ななければならなかったのか。

なぜ自分は成都にいて、何もできなかったのか。

なぜ孫権は、長く共に戦ってきた弟を奪ったのか。

答えのない問いが、少しずつ怒りへ変わっていった。

皇帝であるならば、国の行く末を考えなければならない。

兵を休ませ、民を守り、魏に備えなければならない。

諸葛亮なら、そう諫めるだろう。

劉備自身も、それが正しいことは分かっていた。

それでも、関羽のいない場所を見るたびに、正しさは遠ざかっていった。

静かな悲しみは、消えることなく胸の底に沈んでいく。

そしてその底で、復讐という名の炎が、誰にも見えないほど小さく燃え始めていた。

劉備はまだ剣を抜いてはいなかった。

出陣の命令も下してはいなかった。

ただ、空席となった関羽の場所を見つめていた。

しかし、その目はすでに成都ではなく、遠い東の空へ向けられていた。

桃園で交わした誓いを守るためなのか。

亡き弟の無念を晴らすためなのか。

それとも、悲しみに耐えられない自分自身を救うためなのか。

劉備にも、まだ分からなかった。

分かっているのは一つだけだった。

関羽を失ったあの日から、劉備の心は国を治める皇帝の道を離れ、戻ることのできない戦いへと、静かに傾き始めていた。


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