2026年7月19日日曜日

三国志 劉備玄徳シリーズ⑲ 張飛を失った日

三国志 劉備玄徳シリーズ 張飛を失った日

関羽の仇を討つ戦いを前に、張飛は部下によって命を奪われた。
桃園から共に歩いてきた三人のうち、残されたのは劉備だけとなる。
二人の仲間を続けて失った劉備が、復讐の道から引き返せなくなっていく姿を描く。

蜀の城には、夜が明ける前から無数の足音が響いていた。

兵たちは鎧を身につけ、槍を並べ、馬の腹帯を締めていた。
荷車には兵糧が積まれ、風にはためく軍旗の下では、将たちが声を張り上げている。

呉を討つ。

関羽の仇を討つ。

その言葉だけが、蜀軍全体を動かしていた。

劉備は部屋の中で、戦支度の音を聞いていた。

机の上には、呉へ続く道が描かれた地図が広げられている。
長江、山道、城、砦。

そのどれもが、劉備には遠い場所のように見えた。

彼の目に浮かんでいたのは、地図ではなかった。

麦城で倒れた関羽の姿だった。

あの長い髭も、静かな声も、もう戻らない。
義を重んじ、どれほど苦しい時も隣に立ち続けた男は、敵の手によって首を奪われた。

劉備は、その死を受け入れることができなかった。

だから兵を集めた。
だから剣を取った。
だから呉を滅ぼすと決めた。

復讐だけが、関羽とのつながりを失わずに済む道のように思えた。

そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。

扉の前で止まり、低い声が聞こえた。

「陛下……急ぎ、お伝えしなければならぬことがございます」

劉備は顔を上げた。

使者が部屋へ入ってくる。
その顔は青ざめ、唇は震えていた。

劉備は何も尋ねなかった。

ただ、その男の顔を見ただけで、良い知らせではないことが分かった。

使者は床に膝をつき、深く頭を下げた。

「張飛将軍が……亡くなられました」

部屋から音が消えた。

城の外では兵士たちが走り、馬がいななき、武具の触れ合う音が響いている。

それなのに、劉備のいる部屋だけが、世界から切り離されたように静まり返っていた。

「誰にだ」

しばらくして、劉備は言った。

自分の声ではないように聞こえた。

使者は顔を上げられないまま答えた。

張飛は出陣を急ぐあまり、部下たちに厳しい命令を下した。
期限までに白装束を用意できなければ処罰すると告げ、兵を追い詰めた。

そして、その夜。

眠っていた張飛は、恐れた部下たちによって命を奪われた。
首を持ち去った者たちは、そのまま呉へ逃げたという。

劉備は黙っていた。

怒りも悲しみも、すぐには湧いてこなかった。

胸の中にあったものが、すべて消えてしまったようだった。

関羽が死んだとき、劉備の心には燃え上がるものがあった。

だが張飛の死を聞いた今、残ったのは冷たい空洞だけだった。

劉備は、ゆっくりと目を閉じた。

すると、遠い日の光景が浮かんだ。

桃の花が咲いていた。

風が吹くたび、淡い花びらが舞っていた。

関羽はいつものように静かに立ち、張飛は大きな声で笑っていた。

「兄者、俺たち三人がいれば、どんな敵だって怖くはない」

若い張飛の声が聞こえた。

関羽がわずかに笑い、劉備も笑った。

三人は同じ空を見上げ、同じ願いを口にした。

生まれた日は違っても、死ぬ日は同じでありたい。

あの誓いがあれば、何も失わずに生きていけると思っていた。

国を持たず、兵を失い、何度敗れても、三人で立ち上がってきた。

城を追われた夜も、敵の大軍から逃げた日も、関羽と張飛はそばにいた。

劉備がすべてを失っても、二人だけは残っていた。

だが今、その二人はいない。

桃園から続いていた道に立っているのは、劉備ただ一人だった。

「なぜだ」

小さな声が、部屋に落ちた。

関羽は答えない。

張飛の笑い声も聞こえない。

使者は頭を下げたまま、身動きひとつしなかった。

劉備は立ち上がり、窓の外を見た。

夜明けの光が、出陣を待つ蜀軍を照らし始めていた。

並んだ兵士たち。
高く掲げられた旗。
東へ向けられた無数の槍。

すべてが、劉備の命令を待っていた。

今なら、まだ止めることができたのかもしれない。

張飛を失ったことで、戦の意味はさらに薄れていた。

呉を滅ぼしたところで、関羽は戻らない。
張飛も戻らない。

この戦いの先に、三人で笑った桃園はない。

それでも劉備は、引き返すことができなかった。

ここで兵を退けば、二人の死を見捨てることになる。
そんな思いが、彼の心を縛っていた。

悲しみが深すぎて、進むことしかできなかった。

復讐をやめれば、自分の中に残っている関羽と張飛まで消えてしまうような気がした。

劉備は地図の上に手を置いた。

その指先は、呉の地を強く押さえていた。

「出陣の準備を続けよ」

使者が顔を上げた。

劉備の表情に涙はなかった。
怒りも見えなかった。

ただ、何かをすべて失った者だけが持つ、深い静けさがあった。

「関羽と張飛を奪った者たちを、許すことはできぬ」

それは王の命令ではなかった。

最後の家族を失った男が、自分に言い聞かせるための言葉だった。

やがて軍鼓が鳴り始めた。

蜀の大軍が東へ向かって動き出す。

兵たちは、劉備が義兄弟の仇を討つために進むのだと思っていた。

だが劉備自身にも、もう分からなかった。

自分が復讐へ向かっているのか。
それとも、死んだ二人の後を追っているのか。

桃園で笑っていた三人は、もうどこにもいない。

関羽を失った日に、劉備は復讐を決意した。

そして張飛を失った日、劉備は帰る場所まで失った。

東へ続く道の先に待っているのが勝利ではないことを、心のどこかでは分かっていた。

それでも彼は進んだ。

二人の名を胸に抱きながら。

もう二度と、引き返すことのできない道を。


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