2026年7月19日日曜日
三国志 劉備玄徳シリーズ⑱ 皇帝になった男
成都の宮殿に、朝の光が差し込んでいた。
磨き上げられた床には、金色の柱と赤い幔幕が映り込み、その向こうでは蜀漢の旗が静かに揺れている。
宮殿の中央には、皇帝の衣をまとった劉備が立っていた。
かつて市場でむしろを売っていた男とは思えないほど、その姿は華やかだった。
金糸の刺繍が施された衣。
重く垂れる冠。
腰には、漢王朝を継ぐ者であることを示す玉が下がっている。
長い年月をかけて、劉備はついにここまでたどり着いた。
何も持たず、帰る城さえなく、何度も戦に敗れてきた男が、今は一つの国を背負っている。
曹丕が後漢を終わらせた今、漢の名を再び掲げられる者は自分しかいない。
そう信じるように、劉備はまっすぐ前を見つめていた。
家臣たちが一斉に頭を下げる。
諸葛亮も、趙雲も、蜀の文官や武官たちも、新たな皇帝に深く礼をした。
「陛下」
その言葉が、広い宮殿に響いた。
かつて聞いたことのない呼び名だった。
劉備の胸の奥に、長い旅の記憶がよみがえる。
戦に敗れ、妻子を置いて逃げた日。
頼る者を変えながら、土地から土地へ流れた日。
城を得ては失い、兵を集めては散らした日。
それでも歩き続けた先に、この日があった。
夢は、かなったはずだった。
だが、劉備の視線は家臣たちの間をゆっくりと動き、やがて一つの場所で止まった。
そこには、誰もいなかった。
長い髭をたくわえた男も、深い緑の衣も、青龍偃月刀の重い音もなかった。
関羽は、この宮殿にはいなかった。
もし、あの男が生きていたなら。
家臣たちと同じように頭を下げただろうか。
それとも、昔と変わらぬ顔で兄者と呼んだだろうか。
劉備には分からなかった。
ただ、関羽のいない空間だけが、どの金飾りよりも強く目に映った。
遠い昔、桃園の花の下で三人は誓った。
同じ日に生まれることはできなくても、同じ日に死ぬことを願う。
あのとき描いた未来には、宮殿も玉座もなかった。
ただ三人で乱れた世を正し、共に笑える場所へたどり着くことを夢見ていた。
だが今、劉備は皇帝の衣をまとい、一人でその先に立っている。
玉座へ向かう階段は、すぐ目の前にあった。
家臣たちが再び深く頭を下げる。
蜀漢の旗が風を受け、堂々と広がる。
楽の音が鳴り、祝福の声が宮殿を満たしていく。
劉備はゆっくりと階段を上った。
一段上がるたびに、むしろを売っていた頃の自分が遠ざかっていく。
一段上がるたびに、桃園で笑っていた三人の姿も遠ざかっていく。
やがて劉備は玉座の前に立ち、振り返った。
眼下には、多くの家臣と一つの国があった。
何も持たなかった男は、国を手に入れた。
皇帝の座を手に入れた。
漢の名を受け継ぐ者となった。
それでも、その隣には関羽がいなかった。
華やかな歓声の中で、劉備はほんの一瞬だけ目を閉じた。
見えたのは、成都の宮殿ではない。
春の風が吹く桃園と、まだ何者でもなかった三人の姿だった。
劉備は目を開き、皇帝として玉座に座った。
その日、一人の男の長い夢はかなった。
けれどそれは、桃園で描いた未来とは違う場所にたどり着いた、あまりにも寂しい夢の終わりでもあった。
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