2026年7月19日日曜日

三国志 劉備玄徳シリーズ⑳ 夷陵へ向かう

三国志 劉備玄徳シリーズ 夷陵へ向かう

蜀の大軍は、長い影となって東へ進んでいた。

先頭の兵が峠を越えても、最後尾の姿はまだ遠い地平の向こうにあった。

鎧の擦れる音。
馬の蹄が大地を踏みしめる音。
荷車の軋む音。

それらが重なり、止めることのできない巨大な獣の息遣いとなって、山々の間に響いていた。

道の両側では、無数の軍旗が風に揺れている。

旗に刻まれた「漢」の文字は、曇った空の下でも強く見えた。

だが、その旗の下を進む兵たちが、国のために歩いているのか、皇帝の怒りのために歩いているのか、それを知る者はいなかった。

馬上の劉備は、ただ前だけを見ていた。

誰とも言葉を交わさず、振り返ることもない。

その背には皇帝の威厳があった。

同時に、すべてを失った一人の男の孤独があった。

関羽はもういない。

長い髭を風になびかせ、どれほど苦しい戦いでも劉備の隣に立ち続けた男は、荊州の地で討たれた。

張飛もいない。

怒鳴り、笑い、酒を飲み、誰よりも激しく兄たちを慕った男は、呉へ向かう前に命を奪われた。

三人で始めたはずの道を、今は劉備一人が進んでいる。

後方の高台から、諸葛亮は遠ざかっていく軍列を見つめていた。

風が白い衣を揺らしても、羽扇を持つ手は動かなかった。

この戦は危うい。

怒りに押されて大軍を動かせば、蜀そのものが傷つく。

それを何度伝えても、劉備の心には届かなかった。

届かなかったのではない。

劉備はすべて分かったうえで、進むことを選んだのかもしれなかった。

趙雲もまた、険しい表情で隊列を見ていた。

呉を討つより、北の魏に備えるべきだ。

蜀の兵を、私情のために失ってはならない。

そう訴えた言葉は、今も胸の奥に残っていた。

しかし趙雲の視線の先で、大軍は少しも速度を落とさない。

兵は進み、馬は進み、軍旗は東へなびいている。

もはや誰か一人の力で止められる軍ではなかった。

劉備は手綱を握りしめた。

自分は皇帝として進んでいる。

奪われた荊州を取り戻し、蜀の威信を守り、国の未来を守るために戦う。

そう考えようとするたび、関羽の最期が浮かんだ。

張飛の声が聞こえた。

桃園で交わした誓いが、遠い日のものとは思えないほど鮮明によみがえった。

皇帝として国を守るためなのか。

兄弟の仇を討つためなのか。

劉備自身にも、もう分からなくなっていた。

ただ、引き返すことだけはできなかった。

ここで馬を止めれば、二人の死を受け入れなければならない。

二度と三人で並ぶことはないのだと、認めなければならない。

だから劉備は前を見た。

その先に呉があるからではない。

振り返った先に、失ったものすべてが立っているような気がしたからだ。

風が強くなり、無数の軍旗が大きくはためいた。

蜀軍の長い隊列は、山を越え、谷を埋め、川沿いの道を東へ進んでいく。

諸葛亮の不安も、趙雲の言葉も、兵たちの迷いも、その流れにのみ込まれていった。

やがて大軍の前に、夷陵へ続く深い山々が姿を現した。

その山の向こうに待つものが勝利なのか、炎なのか、まだ誰にも見えてはいなかった。

馬上の劉備だけが、変わらず前を見ていた。

皇帝の顔で。

そして、兄弟を失った男の顔で。


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