2026年7月19日日曜日
三国志 劉備玄徳シリーズ⑩ 三度訪ねた草庵
山あいには、まだ冬が残っていた。
木々の根元に積もった雪は薄く汚れ、細い道には冷たい泥がにじんでいる。
その道を、劉備は黙って歩いていた。
目指すのは、山里の奥にある小さな草庵だった。
そこには、諸葛亮孔明という若者が住んでいる。
天下の流れを読み、まだ誰にも見えていない道を示せる人物だと聞いていた。
だが劉備が草庵を訪ねても、孔明は留守だった。
一度目も会えなかった。
二度目も、扉が開くことはなかった。
それでも劉備は、雪の残る山道を再び登ってきた。
「兄者ほどの者が、なぜ名もない若造のために何度も足を運ばねばならんのです」
張飛は、隠そうともせず不満を漏らした。
冷たい風に肩を震わせながら、草庵の方をにらんでいる。
「こちらから呼びつければよいではありませんか」
劉備は答えなかった。
ただ、雪を踏みしめながら歩き続けた。
少し後ろでは、関羽が静かに二人を見守っていた。
関羽もまた、兄が何を求めているのかを知っていた。
劉備には兵がいる。
張飛と関羽という、命を預けられる兄弟もいる。
それでも、それだけでは天下へ進めない。
何度戦っても居場所を失い、ようやく手に入れた土地さえ守りきれない。
勇気だけでは越えられない山があることを、劉備は誰よりも深く知っていた。
だからこそ、頭を下げることを恥じなかった。
相手が自分より若くてもよかった。
高い地位を持っていなくてもよかった。
天下を切り開く才能があるのなら、自ら草庵の前まで出向き、何度でも扉をたたく。
それが劉備の覚悟だった。
三度目に訪れた草庵は、前の二度と同じように静かだった。
粗末な屋根には薄く雪が残り、庭先の竹が冷たい風に揺れている。
だが、その日は違っていた。
孔明は草庵の中にいた。
まだ眠っていると聞かされても、劉備は起こそうとはしなかった。
張飛はますます顔を険しくしたが、劉備は草庵の外で待ち続けた。
風が袖を揺らし、足元から冷えが上がってくる。
それでも動かなかった。
やがて扉が開き、一人の若者が姿を見せた。
派手な鎧も、立派な冠もない。
静かな目をした、山里の青年だった。
劉備はその前で、深く頭を下げた。
それは、一人の主君が家臣を迎える礼ではなかった。
自分にはない力を持つ者へ、未来を託そうとする人間の礼だった。
孔明は、その姿を黙って見つめていた。
草庵の外では、雪解けの水が細い音を立てて流れ始めていた。
その日、交わされた言葉は、まだ小さな山里の中にしか響いていなかった。
だが、劉備の前には新しい道が開かれようとしていた。
荊州から益州へ。
そして、まだ名もない蜀の国へ。
何度も敗れ、何度もすべてを失った男は、また自分の力だけで立ち上がろうとはしなかった。
人を信じ、その才能に頭を下げ、その力とともに進もうとした。
雪の残る草庵で出会った二人の前に、長く険しい蜀への道が、静かに姿を現し始めていた。
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