夜の森が、赤く染まっていた。
夷陵の山々に沿って長く並んだ蜀軍の陣。その端で生まれた小さな火は、乾いた草をなめ、木々を伝い、眠りかけていた陣営へと走っていった。
ひとつの陣幕が燃え上がる。
続いて、隣の陣からも炎が立った。
兵たちが叫びながら飛び起きたときには、すでに夜の闇よりも炎のほうが大きくなっていた。
馬が縄を引きちぎろうと暴れ、倒れた松明が荷車へ燃え移る。逃げようとする兵と、火を消そうとする兵がぶつかり、狭い山道には怒号と悲鳴が重なった。
どこへ逃げればよいのか。
誰と戦えばよいのか。
敵の姿は見えなかった。
ただ、森の奥から吹く風だけが、火の粉を次の陣へ運んでいた。
蜀の軍旗が燃えていた。
長い年月をかけて集めた兵も、積み上げた武器も、共に戦ってきた者たちの誇りも、炎の中では同じ黒い影になった。
劉備は少し離れた高みから、その光景を見ていた。
誰かが退却を叫んでいる。
誰かが劉備の名を呼んでいる。
だが、その声は遠かった。
劉備の目に映っていたのは、燃え落ちる陣ではなかった。
赤い炎の向こうに、長い髭を風になびかせる関羽の姿が見えた。
いつも背を預けることのできた男。
決して曲がらず、最後まで自分を信じてくれた弟。
次の瞬間には、酒を掲げて笑う張飛の声が聞こえた。
荒々しく、不器用で、それでも誰よりも兄弟を大切にした男。
二人はもういない。
どれほど名を呼んでも、炎の向こうから戻ってくることはなかった。
劉備は皇帝として、この地へ来たのではなかった。
国のためでも、天下のためでもなかった。
仲間を奪われた一人の男として、怒りを抱えたまま軍を進めた。
止める声は聞こえなかった。
いや、聞こうとしなかった。
何度敗れても立ち上がってきた。
城を失い、土地を失い、兵を失っても、関羽と張飛が隣にいた。だから、また歩き始めることができた。
だが今度は違った。
立ち上がるために必要だった二人を失い、その悲しみを埋めるように戦を始めた。
復讐のために並べた陣が、復讐の炎によって焼かれていく。
それは陸遜が放った火でありながら、劉備自身が心の奥で燃やし続けてきた火でもあった。
風が強くなった。
炎は森を越え、谷を渡り、次々と蜀軍の陣を包んでいく。逃げ惑う兵たちの影が赤い地面を走り、倒れた軍旗が火の中へ沈んだ。
劉備が築いてきたものが崩れていく。
人を信じ、人を集め、何も持たないところからつくり上げた国。
何度も敗北を越え、ようやく手にした居場所。
それを壊しているのは、目の前の敵だけではなかった。
自分だった。
劉備は剣の柄を握ったまま、動くことができなかった。
炎の中に関羽と張飛を探していた。
二人なら、何と言っただろう。
怒りに任せて進んだ自分を責めただろうか。
それとも、黙って隣に立ってくれただろうか。
答えはなかった。
聞こえるのは、木々が裂ける音と、焼け落ちる陣の音だけだった。
やがて劉備は馬を返した。
それは次の戦いへ向かうためではない。
長い人生の中で、何度も敗れながら前へ進んできた男が、初めて過去から逃げるように背を向けた瞬間だった。
夷陵の夜は、いつまでも燃えていた。
その炎は蜀軍の陣だけではなく、三人で見続けてきた夢まで焼き尽くしていった。
関羽もいない。
張飛もいない。
そして炎の向こうには、かつての劉備自身も、もう残ってはいなかった。
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