牛若丸は、鞍馬山で日々を過ごしていた。
都から離れた山の中。
そこには、にぎやかな声も、華やかな暮らしもなかった。
聞こえてくるのは、木々を揺らす風の音。
夜になると、どこからともなく響く鳥の声。
そして、自分の足音だけだった。
牛若丸はまだ少年だった。
けれど、その胸の奥には、普通の少年とは違うものが静かに眠っていた。
自分は何者なのか。
なぜ、ここで生きているのか。
なぜ、心の中に消えない火のようなものがあるのか。
その答えを、まだ言葉にはできなかった。
ある夜、牛若丸はひとりで山の中へ入っていった。
月の光は細く、木々の影は深かった。
昼間は静かに見える鞍馬山も、夜になるとまるで別の世界のように感じられた。
足元の土は冷たく、風は肌をなでるように通り過ぎていく。
そのときだった。
木々の奥から、ただならぬ気配がした。
人ではない。
けれど、獣でもない。
山そのものが、形を持ってそこに立っているような気配だった。
牛若丸が息をのんで見つめると、闇の中に大きな影が現れた。
それは、天狗だった。
鋭い眼差し。
闇に溶けるような姿。
そして、近づくだけで空気が張りつめるような存在感。
普通の少年なら、逃げ出していたかもしれない。
けれど牛若丸は、逃げなかった。
怖くなかったわけではない。
ただ、その場から目をそらしてはいけない気がした。
天狗は、牛若丸を見ていた。
まるで、この少年の中にある未来を見抜いているかのように。
その夜から、牛若丸の日々は変わっていった。
山の中で身のこなしを学び、風の流れを読み、足音を消すことを覚えた。
刀を振るうだけではない。
相手の動きの先を読むこと。
恐れに飲まれず、静かに間合いを測ること。
小さな体でも、大きな相手に向かっていける術を身につけていった。
牛若丸は、少しずつ変わっていった。
山を駆ける足は速くなり、目は鋭くなり、心は以前よりも静かになった。
それは、ただ強くなるということだけではなかった。
孤独だった少年が、自分の中に眠る力を知っていく時間だった。
鞍馬山の夜は、牛若丸にとって恐ろしい場所ではなくなっていった。
そこは、自分を鍛える場所になった。
自分を見つめる場所になった。
そして、いつか歴史を動かすことになる少年が、静かに形を変えていく場所になった。
まだ誰も知らない。
この山で天狗と出会った少年が、やがて源義経と呼ばれることを。
そして、その名が長い時代を越えて語り継がれていくことを。
牛若丸は、もうただの少年ではなくなり始めていた。
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