尾張の空は、どこか低かった。
湿った風が城下を抜け、田の匂いと土埃を連れて、清洲のあたりまで流れてくる。
まだ戦国の世は終わる気配もなく、小さな国々が牙をむき、隣の城がいつ敵になるのかもわからない。
そんな尾張に、ひとりの若者がいた。
織田信長。
名はある。
血筋もある。
だが、家臣たちの目に映るその姿は、あまりにも危うかった。
髪は乱れ、衣は崩し、城下を歩く姿も武家の若君らしくない。
人の目を気にする様子もなく、馬に乗れば風を切るように駆け、気まぐれに笑い、気まぐれに黙る。
家臣たちは眉をひそめた。
「あれが織田家を背負う若君か」
声には出さずとも、誰もがそう思っていた。
尾張は広くない。
織田家もまた、盤石ではない。
内には疑いがあり、外には敵がいる。
その中で、跡継ぎとなる若者が「うつけ」と呼ばれている。
家臣たちの不安は、日ごとに重くなっていった。
しかし信長は、そんな視線を知らぬふりで受け流していた。
いや、本当はすべて見えていたのかもしれない。
侮りの目。
失望の息。
陰で交わされる言葉。
それらは、若い胸に届いていないはずがなかった。
それでも信長は、顔色ひとつ変えなかった。
ある夕暮れ、信長は城の外れに立っていた。
遠くには尾張の平野が広がり、暮れかけた空の下に、村の煙が細く上がっている。
風は冷たく、草は低く揺れていた。
誰もいない場所で、信長はただ遠くを見ていた。
そこに何が見えていたのか。
家臣たちにはわからない。
父にも、弟にも、城下の者たちにも、おそらくわからない。
だが、信長の目は、尾張の小さな景色だけを見ているようではなかった。
まだ形にならない何か。
まだ誰も信じていない未来。
古い決まりも、古い権威も、古い恐れも、まとめて踏み越えていくような気配。
その目の奥には、若者らしい迷いと、獣のような鋭さが同時にあった。
うつけ。
人々はそう呼んだ。
だが、その言葉は、信長を閉じ込める檻にはならなかった。
むしろ、その言葉の向こう側で、信長は静かに何かを育てていた。
理解されないこと。
笑われること。
孤独であること。
そのすべてを、信長は早くから知っていた。
若き日の信長は、まだ天下を語らない。
まだ大きな戦にも勝っていない。
まだ歴史の中心に立っているわけでもない。
けれど、尾張の風だけは知っていたのかもしれない。
この若者の中に、いつか時代を壊すものが眠っていることを。
家臣たちが不安に沈む城の中で、信長だけが遠い先を見ていた。
誰にも見えない火が、胸の奥で静かに燃えていた。
それはまだ、小さな火だった。
だがその火は、やがて尾張を越え、国を越え、古い世そのものを焼いていく。
すべては、ここから始まった。
「うつけ」と呼ばれた、ひとりの若者から。
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