2026年5月11日月曜日

織田信長シリーズ① 尾張のうつけ

尾張のうつけ

尾張の空は、どこか低かった。

湿った風が城下を抜け、田の匂いと土埃を連れて、清洲のあたりまで流れてくる。
まだ戦国の世は終わる気配もなく、小さな国々が牙をむき、隣の城がいつ敵になるのかもわからない。

そんな尾張に、ひとりの若者がいた。

織田信長。

名はある。
血筋もある。
だが、家臣たちの目に映るその姿は、あまりにも危うかった。

髪は乱れ、衣は崩し、城下を歩く姿も武家の若君らしくない。
人の目を気にする様子もなく、馬に乗れば風を切るように駆け、気まぐれに笑い、気まぐれに黙る。

家臣たちは眉をひそめた。

「あれが織田家を背負う若君か」

声には出さずとも、誰もがそう思っていた。

尾張は広くない。
織田家もまた、盤石ではない。
内には疑いがあり、外には敵がいる。
その中で、跡継ぎとなる若者が「うつけ」と呼ばれている。

家臣たちの不安は、日ごとに重くなっていった。

しかし信長は、そんな視線を知らぬふりで受け流していた。
いや、本当はすべて見えていたのかもしれない。

侮りの目。
失望の息。
陰で交わされる言葉。

それらは、若い胸に届いていないはずがなかった。

それでも信長は、顔色ひとつ変えなかった。

ある夕暮れ、信長は城の外れに立っていた。
遠くには尾張の平野が広がり、暮れかけた空の下に、村の煙が細く上がっている。
風は冷たく、草は低く揺れていた。

誰もいない場所で、信長はただ遠くを見ていた。

そこに何が見えていたのか。
家臣たちにはわからない。
父にも、弟にも、城下の者たちにも、おそらくわからない。

だが、信長の目は、尾張の小さな景色だけを見ているようではなかった。

まだ形にならない何か。
まだ誰も信じていない未来。
古い決まりも、古い権威も、古い恐れも、まとめて踏み越えていくような気配。

その目の奥には、若者らしい迷いと、獣のような鋭さが同時にあった。

うつけ。

人々はそう呼んだ。

だが、その言葉は、信長を閉じ込める檻にはならなかった。
むしろ、その言葉の向こう側で、信長は静かに何かを育てていた。

理解されないこと。
笑われること。
孤独であること。

そのすべてを、信長は早くから知っていた。

若き日の信長は、まだ天下を語らない。
まだ大きな戦にも勝っていない。
まだ歴史の中心に立っているわけでもない。

けれど、尾張の風だけは知っていたのかもしれない。

この若者の中に、いつか時代を壊すものが眠っていることを。

家臣たちが不安に沈む城の中で、信長だけが遠い先を見ていた。

誰にも見えない火が、胸の奥で静かに燃えていた。

それはまだ、小さな火だった。

だがその火は、やがて尾張を越え、国を越え、古い世そのものを焼いていく。

すべては、ここから始まった。

「うつけ」と呼ばれた、ひとりの若者から。


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