夜の城は、いつもより低く沈んで見えた。
雲は厚く、月は見えない。
風には雨の匂いが混じっていた。
尾張の小さな城の中で、誰もが言葉を失っていた。
今川義元の大軍が迫っている。
その知らせは、ただの報せではなかった。
織田家の終わりを告げる鐘の音のように、家臣たちの胸に重く響いていた。
広間には、武将たちが集まっていた。
だが、誰も声を張らない。
槍を取れと言う者もいた。
城に籠もるべきだと言う者もいた。
援軍など来ないと、顔を伏せる者もいた。
畳の上に置かれた燭台の火だけが、かすかに揺れていた。
その小さな火の揺れにさえ、家臣たちは怯えているようだった。
今川の軍勢は大きい。
あまりにも大きい。
尾張など、踏みつぶされるだけだ。
そう思わない者はいなかった。
誰かが小さく息を吐いた。
「もはや、ここまでか……」
その声は、誰のものだったのか。
言った本人さえ、わからなくなるほど弱い声だった。
広間に、沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、信長だけが座っていた。
背筋を崩さず、目を伏せることもなく、ただ静かに。
まるで、迫り来る大軍の音など聞こえていないかのようだった。
だが、何も考えていないわけではなかった。
信長の目は、遠くを見ていた。
城の壁の向こう。
闇の向こう。
雨雲の向こう。
そこにある、まだ誰にも見えていない何かを見ているようだった。
家臣たちは、その姿を見て不気味にさえ思った。
なぜ、震えないのか。
なぜ、怒鳴らないのか。
なぜ、絶望しないのか。
この夜、織田家は滅びるかもしれない。
明日には、城も、名も、血も、すべて消えているかもしれない。
それなのに、信長は静かだった。
やがて、信長は立ち上がった。
その動きは、あまりにも自然だった。
絶望の中から立ち上がったのではない。
最初から、立つ時を決めていた者の動きだった。
家臣たちの視線が、一斉に信長へ向く。
信長は、広間の者たちを見渡した。
その顔に、恐れはなかった。
笑みもなかった。
ただ、冷たいほど澄んだ落ち着きだけがあった。
「寝よ」
信長は短く言った。
広間がざわめいた。
大軍が迫っている。
明日、滅びるかもしれない。
その夜に、寝よと言う。
誰も、すぐには意味を飲み込めなかった。
だが、信長はそれ以上、多くを語らなかった。
戦の勝敗は、兵の数だけで決まるものではない。
そのことを、まだ誰も信じていなかった。
けれど信長だけは、どこかに細い道を見ていた。
闇の中に一本だけ伸びる、誰も気づかない道。
それは勝利への道か。
それとも死への道か。
家臣たちにはわからなかった。
ただ、信長だけは迷っていなかった。
城の外で、風が強くなった。
雨が降る前の匂いが、さらに濃くなる。
遠くの闇の向こうには、今川の大軍がいる。
尾張を呑み込もうとする、巨大な波のように。
その波を前にして、織田家の者たちは皆、己の小ささを思い知っていた。
だが信長は、その波の高さではなく、波が崩れる一瞬を見ていた。
人が多いほど、油断も大きい。
勝っていると思う者ほど、足元を見ない。
そのわずかな隙間に、命を投げ込む。
信長の中で、何かが静かに定まっていた。
誰にも見えない勝機。
誰にも信じられない一手。
尾張の夜は、重く暗かった。
けれど、その暗闇の底で、ひとりだけ目を開けている男がいた。
織田信長。
うつけと呼ばれた男は、滅びの前夜に、ただ静かに動き出していた。
明日、時代が変わることを、まだ誰も知らなかった。
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