父の名が、まだ屋敷の中に残っていた。
柱にも、畳にも、廊下を渡る風にも、
信秀という男の気配が消えずに染みついていた。
その気配の中に、若い当主が座っている。
織田信長。
まだ若すぎる。
まだ危うすぎる。
そして、誰の目にも、頼りなく見えた。
広間には家臣たちが並んでいた。
誰も大きな声では言わない。
けれど、その沈黙の奥には、はっきりとした不安があった。
本当に、この若者についていってよいのか。
尾張という国を、
織田という家を、
この男に預けてよいのか。
家臣たちは、信長の顔を見ていた。
いや、見ていたというより、探っていた。
その目は、主君を見る目でありながら、
どこかまだ、主君とは認めきれない目でもあった。
若い。
軽い。
何を考えているかわからない。
そんな言葉が、声にならないまま広間に沈んでいた。
信長は、何も言わなかった。
家臣たちの視線が、肌に刺さっていることくらい、
気づいていたはずだった。
不安も、疑いも、失望も、
すべて向けられていることを、知らないはずがなかった。
それでも信長は、顔色を変えなかった。
怒るでもなく、笑うでもなく、
ただ黙って、少し遠くを見ていた。
その目は、広間の中にはなかった。
家臣の顔を見ているようで、
その向こうにある何かを見ていた。
尾張の外。
国境の向こう。
まだ誰も形を知らない、次の時代。
家臣たちには、それがわからなかった。
ただ、落ち着きのない若者に見えた。
ただ、父のあとを継ぐには危うい男に見えた。
しかし信長の胸の奥では、
別の音が鳴っていた。
古いものがきしむ音。
誰かの常識が崩れる音。
遠くで時代がざわめく音。
まだ誰にも聞こえていないその音を、
信長だけが聞いていたのかもしれない。
味方のはずの者たちに囲まれながら、
信長はひとりだった。
敵に囲まれるよりも、
味方に信じられない孤独のほうが、ずっと冷たい。
けれど信長は、その冷たさの中でうつむかなかった。
信じられないなら、それでよい。
わからないなら、まだわからなくてよい。
そんな言葉を、胸の中だけに沈めるように、
若き当主は黙っていた。
広間の空気は重かった。
誰かが息をするたびに、疑いが揺れた。
だが、その重さの中心で、
信長だけは、少しもその場に縛られていないようだった。
誰も信じていなかった。
家臣たちも、親族も、国人たちも、
この若者が何かを変えるなどとは思っていなかった。
けれど、その日、信長の目は遠くを見ていた。
まだ誰も届かない場所を。
まだ誰も信じない未来を。
孤独な若き当主は、
疑いの視線の中で、静かに時代の音を聞いていた。
尾張の空は低く曇っていた。
その雲の向こうで、
何かが動き出そうとしていた。
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