2026年5月13日水曜日

織田信長シリーズ③ 誰も信じていなかった若き当主

誰も信じていなかった若き当主

父の名が、まだ屋敷の中に残っていた。

柱にも、畳にも、廊下を渡る風にも、
信秀という男の気配が消えずに染みついていた。

その気配の中に、若い当主が座っている。

織田信長。

まだ若すぎる。
まだ危うすぎる。
そして、誰の目にも、頼りなく見えた。

広間には家臣たちが並んでいた。

誰も大きな声では言わない。
けれど、その沈黙の奥には、はっきりとした不安があった。

本当に、この若者についていってよいのか。

尾張という国を、
織田という家を、
この男に預けてよいのか。

家臣たちは、信長の顔を見ていた。

いや、見ていたというより、探っていた。

その目は、主君を見る目でありながら、
どこかまだ、主君とは認めきれない目でもあった。

若い。
軽い。
何を考えているかわからない。

そんな言葉が、声にならないまま広間に沈んでいた。

信長は、何も言わなかった。

家臣たちの視線が、肌に刺さっていることくらい、
気づいていたはずだった。

不安も、疑いも、失望も、
すべて向けられていることを、知らないはずがなかった。

それでも信長は、顔色を変えなかった。

怒るでもなく、笑うでもなく、
ただ黙って、少し遠くを見ていた。

その目は、広間の中にはなかった。

家臣の顔を見ているようで、
その向こうにある何かを見ていた。

尾張の外。
国境の向こう。
まだ誰も形を知らない、次の時代。

家臣たちには、それがわからなかった。

ただ、落ち着きのない若者に見えた。
ただ、父のあとを継ぐには危うい男に見えた。

しかし信長の胸の奥では、
別の音が鳴っていた。

古いものがきしむ音。
誰かの常識が崩れる音。
遠くで時代がざわめく音。

まだ誰にも聞こえていないその音を、
信長だけが聞いていたのかもしれない。

味方のはずの者たちに囲まれながら、
信長はひとりだった。

敵に囲まれるよりも、
味方に信じられない孤独のほうが、ずっと冷たい。

けれど信長は、その冷たさの中でうつむかなかった。

信じられないなら、それでよい。
わからないなら、まだわからなくてよい。

そんな言葉を、胸の中だけに沈めるように、
若き当主は黙っていた。

広間の空気は重かった。
誰かが息をするたびに、疑いが揺れた。

だが、その重さの中心で、
信長だけは、少しもその場に縛られていないようだった。

誰も信じていなかった。

家臣たちも、親族も、国人たちも、
この若者が何かを変えるなどとは思っていなかった。

けれど、その日、信長の目は遠くを見ていた。

まだ誰も届かない場所を。
まだ誰も信じない未来を。

孤独な若き当主は、
疑いの視線の中で、静かに時代の音を聞いていた。

尾張の空は低く曇っていた。

その雲の向こうで、
何かが動き出そうとしていた。


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