2026年5月3日日曜日

源義経シリーズ番外編 「那須与一と扇の的」

那須与一と扇の的

屋島の戦いの中で、
ひとつの場面だけが、
まるで絵のように残っている。

海へ逃れた平家。

それを追う源氏。

戦いの熱はまだ冷めず、
海の上にも、
陸の上にも、
張りつめた空気があった。

そんな時、
平家方の船から、
一本の竿が立てられた。

その先には、
一枚の扇。

赤い扇だったとも言われている。

風に揺れ、
波に揺れ、
船の動きに合わせて、
的は静かに揺れていた。

ただの扇ではない。

あれを射てみよ。

そう言われているような、
源氏への挑発だった。

外せば、
源氏の恥になる。

当てれば、
源氏の名が上がる。

けれど、
そんな簡単な話ではなかった。

的は遠い。

海は揺れている。

風もある。

船も止まってはいない。

誰もが見ている。

源氏も、
平家も、
この一矢に目を向けていた。

その役目を負ったのが、
那須与一だった。

若い武士だった。

しかし、
弓の腕は確かだった。

与一は馬に乗り、
海の中へ進んでいく。

馬の足元に、
波が打ち寄せる。

潮の音。

風の音。

遠くから見つめる人々の視線。

そのすべてが、
与一の背中に乗っていた。

もし外せば、
笑われるかもしれない。

もし失敗すれば、
味方の顔に泥を塗ることになる。

それでも、
与一は弓を構えた。

揺れる扇を見つめる。

急がない。

焦らない。

ただ、
一瞬を待つ。

風が止まる瞬間。

波の動きが合う瞬間。

扇が、
ほんの少しだけ静かに見える瞬間。

その時、
与一は矢を放った。

矢は海風を切り、
まっすぐ扇へ向かっていく。

そして、
扇を射抜いた。

扇は空へ舞い、
海へ落ちていった。

その瞬間、
戦場の空気が変わった。

源氏の側からは、
大きな歓声が上がった。

平家の側からも、
その見事さを認める空気があったという。

敵味方を越えて、
ひとつの技が人の心を動かした。

那須与一の名は、
この一矢とともに語られるようになった。

屋島の戦いは、
源義経が平家を追い詰めていく大きな流れの中にある。

けれど、
その中でこの場面だけは、
少し違う光を放っている。

勝つか負けるか。

追うか逃げるか。

そんな激しい戦いの中で、
たった一本の矢が、
武士の誇りを見せた。

那須与一は、
ただ扇を射たのではない。

源氏の名を背負い、
自分の運命を背負い、
誰もが息をのむ中で、
一矢を放った。

その矢は、
扇を落としただけではなかった。

人々の記憶の中に、
ひとつの伝説を残した。

屋島の海に揺れていた扇は、
今も物語の中で揺れている。

そして、
那須与一の放った矢は、
今もその扇へ向かって、
まっすぐ飛び続けている。


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