砂塵の向こうから、地鳴りが聞こえてきた。
最初は、遠い雷のようだった。
だが、それは空から来る音ではなかった。
大地を蹴る馬蹄。
何百、何千という蹄が、乾いた西の荒野を叩いていた。
曹操の兵たちは、思わず振り返った。
黄土の風が舞い上がり、太陽の光がかすむ。
その砂煙の中に、黒い影がいくつも浮かび上がってくる。
西涼騎兵だった。
馬上の兵たちは、革鎧をまとい、槍を構え、弓を背負っていた。
中原の兵のような整った美しさではない。
荒野で生き、荒野で戦ってきた者たちの姿だった。
そして、その先頭にひとり。
白銀の鎧をまとった若き武将がいた。
馬超孟起。
人は彼を、錦馬超と呼んだ。
だがその日の馬超に、華やかさだけを感じる者はいなかった。
その顔は、怒りに燃えていた。
目は血を宿したように鋭く、口元は固く結ばれている。
父を討たれ、一族を失った者の顔だった。
もはや、ただの武将ではない。
仇を追う鬼だった。
馬超は槍を高く掲げた。
「曹操を逃がすな!」
その声が、砂塵を裂いた。
西涼騎兵たちは一斉に吠えた。
馬もまた、主の怒りを知っているかのように駆けた。
曹操軍の陣は乱れた。
盾を並べる暇もない。
槍を構える前に、騎兵の波が押し寄せる。
馬超は迷わなかった。
敵兵を薙ぎ払い、逃げる曹操の姿だけを追った。
赤い袍が、砂の向こうに見えた。
「あれが曹操だ!」
馬超の声に、騎兵たちが一斉に進路を変える。
曹操はそれを聞くと、慌てて赤い袍を脱ぎ捨てた。
だが馬超は止まらない。
「髭の長い男が曹操だ!」
曹操は顔色を変え、剣で髭を切った。
天下を狙う男が、馬上で必死に自分の姿を消そうとしていた。
それでも、背後から馬超の声が追ってくる。
「短い髭の男を討て!」
曹操はついに、旗の布で顔を隠した。
その姿を見た兵たちは震えた。
あの曹操が、逃げている。
あの曹操が、名を隠し、顔を隠し、馬超から逃げている。
馬超の馬は、さらに速くなった。
砂塵の中で、白銀の鎧が鈍く光る。
鬼の形相の若武者が、槍を握りしめて迫ってくる。
それは、戦ではなかった。
復讐だった。
馬超の耳には、兵の叫びも、馬の嘶きも、風の音も、遠く聞こえていた。
ただひとつ、胸の奥で燃えている声だけが消えない。
父の無念。
一族の血。
奪われたもの。
戻らない日々。
すべてが、槍の先に集まっていた。
「曹操――!」
その叫びは、荒野に響いた。
曹操を守る兵たちが、次々と馬超の前に立ちはだかる。
それでも馬超は止まらない。
槍を振るい、馬を進め、ただ前へ前へと迫った。
西涼の騎兵たちもまた、主君の怒りに続いた。
彼らの鎧は砂にまみれ、顔は風に焼けていた。
だが、その目だけは燃えていた。
この戦いは、領地のためだけではない。
名誉のためだけでもない。
奪われた血への返答だった。
曹操は逃げる。
馬超は追う。
砂漠に近い西の荒野で生まれた騎兵たちは、砂煙の中でも道を見失わない。
馬の息、風の流れ、敵の乱れ。
そのすべてを読んで、獣のように追い詰めていく。
その日、曹操軍の兵たちは見た。
錦の名を持つ若武者が、怒りによって鬼となる姿を。
西涼の騎兵が、砂塵の中から嵐のように襲いかかる姿を。
そして、曹操が本気で恐れた瞬間を。
馬超は最後まで曹操を討つことはできなかった。
だが、その名は戦場に焼きついた。
曹操に衣を捨てさせ、髭を切らせ、顔を隠して逃げさせた男。
西涼の砂塵を背負い、
一族の仇を追って、
鬼の形相で駆けた若き猛将。
それが、馬超孟起。
錦馬超と呼ばれた男だった。
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