京の夜は、静かだった。
橋の下を流れる川の音だけが、闇の中で細く聞こえていた。
月の光は雲に隠れ、町の灯りも遠い。
その橋の上に、ひとりの大きな男が立っていた。
名を、弁慶という。
肩は広く、腕は太く、薙刀を持つ姿はまるで岩のようだった。
通る者はみな、その姿を見るだけで足を止めた。
弁慶は、強かった。
けれど、その強さは、どこか行き場をなくしていた。
誰にも負けない。
誰にも倒されない。
そう思えば思うほど、夜は深くなっていく。
力があるのに、心は満たされない。
勝てば勝つほど、自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。
橋の上に立つ弁慶の背中は大きかったが、どこか寂しそうでもあった。
その夜、ひとりの若者が橋へやってきた。
軽い足音だった。
風が通り抜けるような、静かな足音。
弁慶は目を細めた。
若者は小柄で、弁慶の前に立つにはあまりにも細く見えた。
だが、その目だけは違っていた。
夜の中で、まっすぐ光っていた。
「そこを通るのか」
弁慶の声が低く響いた。
若者は少しもひるまなかった。
ただ、静かに弁慶を見上げた。
その瞬間、弁慶は不思議なものを感じた。
この若者は、ただの若者ではない。
体は小さい。
力で押せば倒せるようにも見える。
それなのに、目の奥にあるものは、自分よりもずっと遠くを見ている。
弁慶が薙刀を構えた。
若者が動いた。
まるで月の光が水面を走るようだった。
弁慶の力は届かない。
振り下ろした刃は空を切り、踏み込んだ足元にはもう若者はいない。
何度も、何度も、弁慶は追った。
けれど、若者は風のようにかわした。
やがて弁慶は膝をついた。
息が荒い。
腕にも足にも力は残っている。
それなのに、心のどこかで負けたことを知っていた。
若者は、静かに立っていた。
勝ち誇ることもなく、見下すこともなく。
ただ、弁慶を見ていた。
その目に、弁慶は初めて出会った。
自分の力を恐れない目。
自分をただの荒くれ者として見ない目。
弁慶はその時、思ったのかもしれない。
この人なら、自分の力の行き先を知っている。
この人なら、自分の大きすぎる体も、荒すぎる力も、ただ壊すためではなく、守るために使える。
若者の名は、源義経。
その日から、弁慶の歩く道は変わった。
ひとりで立っていた橋の上から、義経の後ろへ。
誰かを倒すための力から、誰かを守るための力へ。
弁慶は、義経のそばにいた。
戦場の風が吹く日も。
夜の山道を逃げる日も。
味方が減り、道が細くなり、運命が冷たく背中に迫る日も。
義経が前を見ている時、弁慶は後ろを見ていた。
義経が進む時、弁慶は道をふさいだ。
義経が黙る時、弁慶も黙ってそばにいた。
言葉は多くなかった。
けれど、義経の少し後ろには、いつも大きな背中があった。
その背中は、ただ強いだけではなかった。
雨を受け、風を受け、矢を受けても、主君の影を守るためにそこにあった。
やがて、最後の時が近づいてくる。
逃げ道は少なくなり、味方の声も遠くなった。
山の空気は冷たく、朝の光さえ寂しかった。
弁慶は前に出た。
義経のいる場所へ、誰も近づけまいと。
矢が飛んできた。
一本。
また一本。
体に刺さっても、弁慶は動かなかった。
薙刀を握る手は重くなり、足元の土は赤く染まっていく。
それでも、倒れなかった。
弁慶は立っていた。
ただ立っていた。
その大きな体で、最後の門のように。
敵は近づけなかった。
あまりにも静かだったから。
あまりにも大きかったから。
そして、あまりにも悲しかったから。
弁慶はもう、戦っていたのではないのかもしれない。
守っていた。
ただ、それだけだった。
かつて橋の上で、行き場のない力を抱えていた男は、最後に自分の力のすべてを使い切った。
誰かを恐れさせるためではなく。
誰かを傷つけるためでもなく。
たったひとりの主君を、最後まで守るために。
弁慶の背中は、大きかった。
その背中には、義経との出会いがあり、戦の日々があり、逃げ続けた夜があり、もう戻れない運命があった。
そして最後に残ったのは、倒れずに立つ男の姿だった。
時代が過ぎても、人はその姿を忘れなかった。
弁慶なら、きっとそうしただろう。
弁慶なら、最後まで立っただろう。
そう思わせるほどに、その男の背中は深く、強く、寂しかった。
物語の中で、義経は風のように駆け抜けていく。
その風を、最後まで守ろうとした岩のような男がいた。
名を、弁慶という。
※この記事には広告(アフィリエイトリンク)が含まれています
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
楽天ブックス
よろしければ、
そっとのぞいてみてください。

0 件のコメント:
コメントを投稿