2026年6月25日木曜日
上杉謙信シリーズ⑭ 残された越後
春日山城に、主の声はもうなかった。
雪はまだ越後の山に残り、白く冷たいものが城の屋根にも、石垣にも、家臣たちの肩にも積もっていた。
誰も大声を出さなかった。
廊下を歩く足音だけが、やけに広く響いた。
ついこの前まで、そこには上杉謙信がいた。
軍議の席に座り、地図を見下ろし、言葉少なに越後の行く先を決めていた。
その姿がなくなっただけで、城はまるで柱を失った建物のように、静かに傾きはじめていた。
家臣たちは互いの顔を見た。
だが、誰も本当のことを口にしなかった。
これから越後はどうなるのか。
誰が上杉を継ぐのか。
あの大きすぎた主君のあとに、誰がこの国を背負えるのか。
謙信が生きていたころ、越後の不安はすべて主君の背中に隠れていた。
敵がいれば、謙信が向かった。
迷いがあれば、謙信が決めた。
家臣たちは、その強さに守られていた。
けれど、その強さがあまりに大きかったからこそ、失われたあとに残った穴もまた深かった。
城の一室には、まだ謙信の気配が残っていた。
使われなくなった甲冑。
広げられたままの地図。
火の消えた燭台。
誰かがそこに座れば、すぐにでも主君が戻ってきそうだった。
だが、戻らない。
雪の向こうから馬の音が聞こえることもなく、毘沙門天に祈るあの背中が現れることもなかった。
残された者たちは、ただその不在を見つめていた。
そして、不在はやがて人の心を変えていく。
はじめは小さな沈黙だった。
次に、目線が変わった。
誰が誰のそばに立つのか。
誰が誰の言葉にうなずくのか。
誰が次の主を支えるのか。
春日山城の空気は、雪よりも冷たくなっていった。
謙信の死を悲しむ声の下で、静かに別の音が鳴りはじめていた。
それは刃の音ではなかった。
まだ戦の太鼓でもなかった。
だが、確かに争いの気配だった。
越後の国は、主君を失った悲しみの中で、少しずつ割れていく。
大きすぎる龍が去ったあと、残された者たちは、その影の中で互いを見た。
誰もが上杉を守ると言った。
誰もが越後のためだと言った。
けれど、その言葉の奥には、それぞれ違う思いが沈んでいた。
雪は静かに降り続いた。
春日山城は何も語らなかった。
ただ、かつて謙信が見下ろした越後の山々だけが、重い雲の下に沈んでいた。
主君のいない国。
大きすぎた名のあとに残された家。
その静けさの中で、上杉家はゆっくりと揺れはじめる。
やがてその揺れは、御館の乱へとつながっていく。
けれど、この時はまだ、誰も叫んでいなかった。
ただ冷たい雪の中で、消えない謙信の気配だけが、春日山城に残っていた。
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