春日山城の空気は、いつもより冷たかった。
山から吹き下ろす風は、城の板戸をかすかに鳴らし、廊下の奥へ細く消えていった。
越後の冬はまだ去りきっていない。
それでも、城の中には次の戦の気配があった。
地図は広げられ、使者は行き交い、家臣たちは声を低くして言葉を交わしていた。
誰もが思っていた。
まだ終わっていない、と。
この龍は、まだ駆けるのだと。
上杉謙信は、静かに歩いていた。
戦場で馬を進めるときのような鋭さではなく、城の中を歩くひとりの男として、ただ冷たい廊下を進んでいた。
その背に、いくつもの戦が重なっていた。
川中島の霧も、関東の遠い道も、越後の雪も、すべてがそこに沈んでいるようだった。
家臣たちは、その姿を見て少しだけ背筋を伸ばした。
この人がいる。
ならば、次の戦も越えられる。
誰もがそう信じていた。
けれど、その瞬間はあまりにも突然だった。
謙信の足が止まった。
ほんの一瞬、城の空気が凍った。
次の言葉を発する前に、龍は崩れるように倒れた。
床を打つ音は、大きくはなかった。
けれど、その小さな音が、春日山城のすべてを沈黙させた。
家臣たちは動けなかった。
戦場で矢が降ってもひるまなかった者たちが、ただ息をのんで立ち尽くしていた。
叫び声さえ、すぐには出なかった。
強すぎた男の最期は、刀の音も、馬のいななきも、鬨の声も連れてこなかった。
ただ、冷たい城の中で、静かに訪れた。
春日山城の外では、風が吹いていた。
山の木々が揺れ、遠い空にはまだ戦の雲が残っていた。
これから向かうはずだった道。
まだ見ぬ敵。
まだ果たされていない思い。
そのすべてを残したまま、謙信は目を閉じた。
戦場で散ったのではない。
敵に討たれたのでもない。
越後の城の中で、龍はふいに空へ帰った。
あまりにも静かで、あまりにも重い別れだった。
家臣たちは、ただ頭を下げた。
誰も言葉を持たなかった。
この世から大きなものが消えたとき、人は声を失うのだと、その場にいた者たちは知った。
春日山城には、まだ謙信の気配が残っていた。
冷たい廊下にも、広げられた地図にも、静まり返った部屋にも。
けれど、もう龍はいない。
越後の空だけが、何も言わずに白く広がっていた。
戦はまだ終わっていなかった。
それでも、その日、ひとつの時代は静かに終わった。
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