2026年6月24日水曜日

上杉謙信シリーズ⑬ 龍の最期

上杉謙信シリーズ 龍の最期

春日山城の空気は、いつもより冷たかった。

山から吹き下ろす風は、城の板戸をかすかに鳴らし、廊下の奥へ細く消えていった。

越後の冬はまだ去りきっていない。
それでも、城の中には次の戦の気配があった。

地図は広げられ、使者は行き交い、家臣たちは声を低くして言葉を交わしていた。

誰もが思っていた。
まだ終わっていない、と。

この龍は、まだ駆けるのだと。

上杉謙信は、静かに歩いていた。

戦場で馬を進めるときのような鋭さではなく、城の中を歩くひとりの男として、ただ冷たい廊下を進んでいた。

その背に、いくつもの戦が重なっていた。
川中島の霧も、関東の遠い道も、越後の雪も、すべてがそこに沈んでいるようだった。

家臣たちは、その姿を見て少しだけ背筋を伸ばした。

この人がいる。
ならば、次の戦も越えられる。
誰もがそう信じていた。

けれど、その瞬間はあまりにも突然だった。

謙信の足が止まった。

ほんの一瞬、城の空気が凍った。

次の言葉を発する前に、龍は崩れるように倒れた。

床を打つ音は、大きくはなかった。
けれど、その小さな音が、春日山城のすべてを沈黙させた。

家臣たちは動けなかった。

戦場で矢が降ってもひるまなかった者たちが、ただ息をのんで立ち尽くしていた。

叫び声さえ、すぐには出なかった。

強すぎた男の最期は、刀の音も、馬のいななきも、鬨の声も連れてこなかった。

ただ、冷たい城の中で、静かに訪れた。

春日山城の外では、風が吹いていた。
山の木々が揺れ、遠い空にはまだ戦の雲が残っていた。

これから向かうはずだった道。
まだ見ぬ敵。
まだ果たされていない思い。

そのすべてを残したまま、謙信は目を閉じた。

戦場で散ったのではない。
敵に討たれたのでもない。

越後の城の中で、龍はふいに空へ帰った。

あまりにも静かで、あまりにも重い別れだった。

家臣たちは、ただ頭を下げた。

誰も言葉を持たなかった。
この世から大きなものが消えたとき、人は声を失うのだと、その場にいた者たちは知った。

春日山城には、まだ謙信の気配が残っていた。
冷たい廊下にも、広げられた地図にも、静まり返った部屋にも。

けれど、もう龍はいない。

越後の空だけが、何も言わずに白く広がっていた。

戦はまだ終わっていなかった。
それでも、その日、ひとつの時代は静かに終わった。


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