虎千代が歩くたび、寺の廊下が小さく鳴った。
冬の冷たさを吸い込んだ板の間は、足の裏から骨の奥まで静けさを伝えてくるようだった。
外では雪が降っていた。
強く降る雪ではない。
ただ、音もなく、越後の山と屋根と庭石を白く包んでいく雪だった。
その静けさの向こうに、戦国の気配があった。
遠い城の噂。
誰かが討たれたという話。
昨日まで味方だった者が、今日には敵になる世の中。
虎千代はまだ幼かった。
けれど、寺に流れる空気の重さだけは、子ども心にもわかっていた。
仏前には、小さな灯りが揺れていた。
炎は細く、頼りなく見えるのに、決して消えなかった。
暗い堂の中で、その灯りだけが、静かに虎千代の顔を照らしていた。
虎千代は手を合わせた。
勝ちたいと願ったのではない。
強くなりたいと叫んだのでもない。
ただ、まっすぐでありたいと思った。
人が人を裏切り、国が国を飲み込み、力のある者だけが声を大きくする時代の中で、何を信じればよいのか。
その答えを、幼い心で探していた。
雪の音がした。
寺の屋根を打つでもなく、地面に落ちて消えるだけの、かすかな音だった。
虎千代は、その音を聞きながら、仏の前に座り続けた。
外の世がどれほど荒れていても、この場所には別の時間が流れていた。
刀の音ではなく、読経の声。
怒号ではなく、雪の沈黙。
憎しみではなく、祈り。
けれど、その静けさは、世から逃げるためのものではなかった。
虎千代の心の奥に、少しずつ何かが育っていた。
ただ戦に勝つための強さではない。
誰かを従わせるための力でもない。
曲げてはいけないものを、曲げずに守る心。
弱き者の声を、聞き捨てない心。
たとえ損をしても、正しいと信じた道から目をそらさない心。
それはまだ、言葉にはならなかった。
義という一文字にも、まだ届いてはいなかった。
それでも、仏前の灯りを見つめる虎千代の瞳には、幼いながらも不思議な静けさがあった。
雪の夜に閉ざされた寺の中で、その瞳だけが、遠い未来を知っているようにも見えた。
やがて虎千代は、寺を出る。
戦の世へ戻り、越後の地に立ち、数えきれない争いの中へ身を置くことになる。
けれど、その心の奥には、冷たい廊下の感触が残っていた。
仏前で揺れていた灯りが残っていた。
雪の音を聞きながら祈った、あの静かな夜が残っていた。
のちに人々は、その名を上杉謙信と呼ぶ。
義のために戦った武将として語り継ぐ。
その始まりは、勇ましい戦場ではなかったのかもしれない。
白い雪に包まれた寺の中で、ひとりの少年が静かに手を合わせていた。
戦うためだけではなく、何を信じて生きるのかを知るために。
虎千代の中で、義の心は、雪のように静かに降り積もっていった。
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