2026年6月3日水曜日

織田信長シリーズ㉑ 武田信玄という壁

織田信長シリーズ 武田信玄という壁
その名が出た瞬間、部屋の空気が重くなった。

武田信玄。

ただの敵ではなかった。
ただの大名でもなかった。

甲斐の山奥から、ゆっくりと巨大な影が動き出している。
その知らせは、刀よりも冷たく、火縄銃よりも重く、信長の前に置かれた。

家臣たちは黙っていた。
誰も軽い言葉を口にしない。

浅井もいる。
朝倉もいる。
将軍の影もある。
寺社勢力の圧力も消えてはいない。

だが、武田は違った。

武田信玄という男は、戦の匂いそのものだった。
山に鍛えられ、兵に恐れられ、敵に怯えられた男。
その軍勢が動くというだけで、国境の空は暗くなる。

甲斐から吹く風が、尾張の城まで届いているようだった。
目には見えない。
だが、確かに近づいている。

信長は何も言わなかった。

いつものように怒鳴ることもない。
笑うこともない。
家臣の不安を斬り捨てるような言葉もない。

ただ、黙っていた。

その沈黙が、かえって家臣たちを不安にさせた。
信長が恐れているのか。
それとも、考え抜いているのか。
誰にも分からなかった。

火鉢の炭が、ぱちりと小さく鳴った。
その音だけが、部屋の中でやけに大きく響いた。

信長にも、恐れるべき相手がいた。

天下へ向かって進むその道の前に、武田信玄という壁が立っていた。
ただ高いだけではない。
厚く、重く、動かぬ山のような壁だった。

力で押せば崩れる相手ではない。
速さで抜ける相手でもない。
策を用いても、簡単には飲み込めない。

武田の騎馬が動けば、大地が鳴る。
その音はまだ遠い。
だが、遠いからこそ恐ろしかった。

近づいてくるまでの時間が、心を削っていく。
いつ来るのか。
どこを突くのか。
誰が耐えられるのか。

家臣たちの顔には、言葉にならない不安が浮かんでいた。

信長はそのすべてを見ていた。
見ていながら、やはり何も言わなかった。

窓の外には、暗い雲が低く垂れていた。
西でも東でもない。
もっと遠く、甲斐の山々の方角から、時代そのものが押し寄せてくるようだった。

信長は、目を細めた。

倒さねばならぬ相手がいる。
避けて通れぬ男がいる。

天下を望むなら、必ず越えねばならぬ壁。

その壁の名は、武田信玄。

信長の前に、最強の敵が近づいていた。

そしてその夜、城の中には、誰も口にしない恐れだけが静かに残っていた。


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