その名が出た瞬間、部屋の空気が重くなった。
武田信玄。
ただの敵ではなかった。
ただの大名でもなかった。
甲斐の山奥から、ゆっくりと巨大な影が動き出している。
その知らせは、刀よりも冷たく、火縄銃よりも重く、信長の前に置かれた。
家臣たちは黙っていた。
誰も軽い言葉を口にしない。
浅井もいる。
朝倉もいる。
将軍の影もある。
寺社勢力の圧力も消えてはいない。
だが、武田は違った。
武田信玄という男は、戦の匂いそのものだった。
山に鍛えられ、兵に恐れられ、敵に怯えられた男。
その軍勢が動くというだけで、国境の空は暗くなる。
甲斐から吹く風が、尾張の城まで届いているようだった。
目には見えない。
だが、確かに近づいている。
信長は何も言わなかった。
いつものように怒鳴ることもない。
笑うこともない。
家臣の不安を斬り捨てるような言葉もない。
ただ、黙っていた。
その沈黙が、かえって家臣たちを不安にさせた。
信長が恐れているのか。
それとも、考え抜いているのか。
誰にも分からなかった。
火鉢の炭が、ぱちりと小さく鳴った。
その音だけが、部屋の中でやけに大きく響いた。
信長にも、恐れるべき相手がいた。
天下へ向かって進むその道の前に、武田信玄という壁が立っていた。
ただ高いだけではない。
厚く、重く、動かぬ山のような壁だった。
力で押せば崩れる相手ではない。
速さで抜ける相手でもない。
策を用いても、簡単には飲み込めない。
武田の騎馬が動けば、大地が鳴る。
その音はまだ遠い。
だが、遠いからこそ恐ろしかった。
近づいてくるまでの時間が、心を削っていく。
いつ来るのか。
どこを突くのか。
誰が耐えられるのか。
家臣たちの顔には、言葉にならない不安が浮かんでいた。
信長はそのすべてを見ていた。
見ていながら、やはり何も言わなかった。
窓の外には、暗い雲が低く垂れていた。
西でも東でもない。
もっと遠く、甲斐の山々の方角から、時代そのものが押し寄せてくるようだった。
信長は、目を細めた。
倒さねばならぬ相手がいる。
避けて通れぬ男がいる。
天下を望むなら、必ず越えねばならぬ壁。
その壁の名は、武田信玄。
信長の前に、最強の敵が近づいていた。
そしてその夜、城の中には、誰も口にしない恐れだけが静かに残っていた。
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