風が、変わっていた。
それは戦場の風ではなかった。
馬の蹄が土を蹴る音でも、
槍の穂先が朝日に光る気配でもなかった。
もっと重く、
もっと広く、
見えないところから押し寄せてくる風だった。
信長のまわりに、敵が増えていた。
北には浅井がいた。
かつては手を結んだはずの家。
同じ盃の匂いが、いつの間にか血の匂いに変わっていた。
その向こうには朝倉がいた。
古くから越前に根を張る家。
ただの敵ではない。
長く続いた時代そのもののように、
重く、鈍く、信長の前に立ちはだかっていた。
西には、将軍の影があった。
信長が京へ入り、
その座を支えたはずの将軍。
だが、支えられた者は、やがて支えた者を恐れる。
御所の奥で交わされる言葉。
畳の上を静かに歩く足音。
文が運ばれ、密かな約束が結ばれる。
刀を抜かぬ戦いが、そこにあった。
さらに寺社勢力の影が濃くなっていた。
山の上にある堂。
古い鐘の音。
白い煙。
読経の声。
それらは祈りであり、同時に力でもあった。
人々が何百年も頭を下げてきたもの。
誰も逆らってはならないと思い込んできたもの。
信長は、それに手をかけた。
だから、山も寺も、
古い権威も、
静かに信長を憎んだ。
そして東には武田がいた。
甲斐の山々から吹き下ろすような、
冷たく鋭い圧力。
騎馬の気配。
赤い旗。
踏み固められた兵の足音。
武田信玄。
その名は、まだ姿を見せぬうちから、
城の空気を重くした。
家臣たちは、口数を減らした。
地図の上に置かれた石が、
ひとつ、またひとつと信長の領地を囲んでいく。
浅井。
朝倉。
武田。
将軍。
寺社勢力。
それは、ただ敵の名前が増えたというだけではなかった。
信長が壊そうとしているものすべてが、
信長を押しつぶそうとしていた。
古い家柄。
古い秩序。
古い祈り。
古い都の作法。
古い武士の誇り。
それらが、それぞれの場所から手を伸ばし、
信長の首に縄をかけようとしていた。
夜の城で、信長は地図を見ていた。
灯明の火が、小さく揺れる。
その光が、信長の顔に濃い影を作った。
家臣の誰も、軽々しく声をかけられなかった。
ここで一手を誤れば、終わる。
尾張のうつけと呼ばれた男が、
京へ上り、将軍を支え、
古い権威を踏み越えようとした。
その結果、彼は天下へ近づいた。
だが同時に、
天下そのものが彼を拒み始めていた。
信長は、黙っていた。
怒っているようにも見えた。
笑っているようにも見えた。
何かを恐れているようには、見えなかった。
だが、恐れがなかったわけではない。
恐れを飲み込み、
迷いを焼き払い、
前へ進むしかない男の顔だった。
信長は知っていた。
自分は、ひとつの国と戦っているのではない。
ひとりの大名と戦っているのでもない。
自分が戦っているのは、
長く続きすぎた時代そのものだった。
だからこそ、敵は増える。
だからこそ、囲まれる。
だからこそ、逃げ場はなくなる。
城の外では、夜の闇が深く沈んでいた。
その闇の向こうで、
浅井が息を潜めていた。
朝倉が刃を研いでいた。
武田が山を越えようとしていた。
将軍が文を飛ばしていた。
寺社の鐘が、低く鳴っていた。
四方から、時代が迫ってくる。
信長は、その中心にいた。
まるで巨大な炎の前に立つように。
まるで崩れかけた古い門を、ひとりで押し倒そうとするように。
やがて信長は、静かに地図から目を上げた。
その目には、後ろへ下がる色はなかった。
囲まれたなら、破る。
押しつぶされるなら、その前に焼き切る。
時代が敵になるなら、時代ごと斬る。
そう言葉にしたわけではない。
だが、その場にいた者たちは感じていた。
この男は、まだ止まらない。
止まれない。
信長包囲網。
それは、信長を倒すための網だった。
けれど同時に、
古い時代が最後の力で張った、
巨大な罠でもあった。
その網の中で、信長は静かに燃えていた。
燃え尽きるためではない。
囲んでくるものすべてを、
焼き破るために。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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