2026年6月13日土曜日
上杉謙信シリーズ① 越後に生まれた虎
越後の冬は、静かだった。
けれど、その静けさは、眠っているようなものではなかった。
雪の下に、何かがじっと息をひそめているような静けさだった。
山は白く沈み、道は細く消え、城の屋根には重たい雪が積もっていた。
風が吹くたび、冷たい音が木の柱を震わせた。
戦国の世は、遠くの国だけで荒れていたわけではない。
この雪深い越後にも、人の迷いと争いの気配は流れ込んでいた。
誰が味方で、誰が敵なのか。
今日交わした言葉が、明日も同じ意味を持つのか。
大人たちは、低い声で話していた。
火鉢の赤い火を囲みながらも、その顔には少しも温かさがなかった。
その冷えた空気の中に、ひとりの少年がいた。
名を、虎千代という。
まだ幼い少年だった。
小さな手も、細い肩も、雪国の子どもと変わらない。
けれど、その目だけは違っていた。
幼さの奥に、まっすぐな光があった。
人の言葉の表だけではなく、その裏に隠れた弱さや迷いまで見つめてしまうような目だった。
虎千代は、多くを語らなかった。
ただ静かに、雪の向こうを見ていた。
白くかすむ山。
風に揺れる木々。
遠くに沈む、越後の空。
その景色の中に、まだ誰も知らない未来があった。
この少年が、やがて国を背負うことを。
乱れた世の中で、義という言葉を胸に抱くことを。
戦場に立ち、兵たちの心を震わせる存在になることを。
このとき、誰が思っただろう。
雪の中に立つ小さな虎千代が、やがて上杉謙信となることを。
越後の雪は、まだ深い。
春の気配は遠く、空は重く閉ざされている。
けれど、静かな白の世界の奥で、ひとつの運命がゆっくりと動き始めていた。
まだ龍ではない。
まだ名も知られていない。
ただ、鋭い目をした幼い虎が、越後の地に生まれていた。
やがてその虎は、戦国の空へ昇っていく。
人々が畏れと敬いを込めて、越後の龍と呼ぶ存在へと。
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