夜は、まだ明けていなかった。
京の町は眠っているように静まり返り、遠くの屋根も、寺の影も、深い闇の底に沈んでいた。
その静けさを破ったのは、馬の蹄の音だった。
低く、重く、迷いのない音。
それは、夜の闇を裂くように本能寺へ近づいてきた。
明智光秀の軍勢であった。
兵たちは声をひそめながら進み、やがて本能寺を囲んだ。
槍の穂先がわずかな月明かりを受け、冷たく光る。
誰も大きく叫ばない。
だからこそ、その気配は恐ろしかった。
まるで闇そのものが、寺を包み込んでいくようだった。
本能寺の奥で、織田信長は目を覚ました。
外のざわめき。
兵の足音。
火のつく音。
そして、夜明け前の空気に混じる、ただならぬ殺気。
信長は、すぐに悟った。
これはただの襲撃ではない。
敵は外から来たのではない。
己のすぐそばにいた者が、刃を向けたのだ。
「是非に及ばず」
その言葉は、怒りでも、嘆きでもなかった。
長い道の果てに、ようやく行き着く場所を見た者のような、静かな声だった。
天下は、もう手の届くところにあった。
多くの敵を倒し、古い権威を砕き、人の世の形を変えようとしてきた。
だが、その道の最後に待っていたのは、勝利の朝ではなかった。
炎だった。
本能寺の一角に火が放たれる。
最初は小さな赤い揺らめきだった。
それが柱をなめ、障子を染め、天井へと這い上がっていく。
煙がゆっくりと広がり、寺の中の空気が重く濁っていった。
外では兵の声がする。
「囲め」
「逃がすな」
「火を放て」
その声は勝利に酔ったものではなかった。
恐れを押し殺した声だった。
彼らもまた知っていたのかもしれない。
今、自分たちが討とうとしている男が、ただの大名ではないことを。
信長は炎の中で立っていた。
その顔に、取り乱した色はなかった。
怒りにまかせて叫ぶことも、命を惜しんで逃げ惑うこともなかった。
ただ、燃え上がる本能寺の奥で、自分の終わりを静かに見つめていた。
炎の光が、信長の横顔を赤く照らす。
影は深く、目だけが冷たく沈んでいた。
外の空は、まだ黒い。
しかし東の端には、かすかに夜明けの気配があった。
その淡い光は、信長に届く前に、炎の赤に飲み込まれていく。
夜が終わろうとしている。
だが信長の朝は、もう来ない。
明智光秀の謀反。
それは、天下を目前にした男を討つための刃であり、同時に時代そのものを大きく裂く一撃だった。
炎はさらに強くなる。
木がはぜる音。
煙にむせる声。
遠くで崩れる柱の音。
そのすべての中で、信長だけが妙に静かだった。
人の上に立ち、神仏さえも越えようとした男。
その男の最期は、華やかな勝利の場ではなかった。
夜明け前の寺。
裏切りの兵に囲まれた炎の中。
誰にも助けを求めず、誰にも運命を預けず、ただ自分の終わりを受け入れる場所だった。
やがて本能寺は、炎に包まれていく。
京の空が赤く染まり始める。
それは朝焼けではなかった。
ひとつの時代が燃えている色だった。
織田信長は、その炎の奥へ消えていった。
静かに。
恐ろしく。
そして、二度と戻らなかった。
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