2026年6月11日木曜日

織田信長シリーズ㉙ 本能寺の変

織田信長シリーズ 本能寺の変

夜は、まだ明けていなかった。

京の町は眠っているように静まり返り、遠くの屋根も、寺の影も、深い闇の底に沈んでいた。

その静けさを破ったのは、馬の蹄の音だった。

低く、重く、迷いのない音。

それは、夜の闇を裂くように本能寺へ近づいてきた。

明智光秀の軍勢であった。

兵たちは声をひそめながら進み、やがて本能寺を囲んだ。

槍の穂先がわずかな月明かりを受け、冷たく光る。

誰も大きく叫ばない。

だからこそ、その気配は恐ろしかった。

まるで闇そのものが、寺を包み込んでいくようだった。

本能寺の奥で、織田信長は目を覚ました。

外のざわめき。

兵の足音。

火のつく音。

そして、夜明け前の空気に混じる、ただならぬ殺気。

信長は、すぐに悟った。

これはただの襲撃ではない。

敵は外から来たのではない。

己のすぐそばにいた者が、刃を向けたのだ。

「是非に及ばず」

その言葉は、怒りでも、嘆きでもなかった。

長い道の果てに、ようやく行き着く場所を見た者のような、静かな声だった。

天下は、もう手の届くところにあった。

多くの敵を倒し、古い権威を砕き、人の世の形を変えようとしてきた。

だが、その道の最後に待っていたのは、勝利の朝ではなかった。

炎だった。

本能寺の一角に火が放たれる。

最初は小さな赤い揺らめきだった。

それが柱をなめ、障子を染め、天井へと這い上がっていく。

煙がゆっくりと広がり、寺の中の空気が重く濁っていった。

外では兵の声がする。

「囲め」

「逃がすな」

「火を放て」

その声は勝利に酔ったものではなかった。

恐れを押し殺した声だった。

彼らもまた知っていたのかもしれない。

今、自分たちが討とうとしている男が、ただの大名ではないことを。

信長は炎の中で立っていた。

その顔に、取り乱した色はなかった。

怒りにまかせて叫ぶことも、命を惜しんで逃げ惑うこともなかった。

ただ、燃え上がる本能寺の奥で、自分の終わりを静かに見つめていた。

炎の光が、信長の横顔を赤く照らす。

影は深く、目だけが冷たく沈んでいた。

外の空は、まだ黒い。

しかし東の端には、かすかに夜明けの気配があった。

その淡い光は、信長に届く前に、炎の赤に飲み込まれていく。

夜が終わろうとしている。

だが信長の朝は、もう来ない。

明智光秀の謀反。

それは、天下を目前にした男を討つための刃であり、同時に時代そのものを大きく裂く一撃だった。

炎はさらに強くなる。

木がはぜる音。

煙にむせる声。

遠くで崩れる柱の音。

そのすべての中で、信長だけが妙に静かだった。

人の上に立ち、神仏さえも越えようとした男。

その男の最期は、華やかな勝利の場ではなかった。

夜明け前の寺。

裏切りの兵に囲まれた炎の中。

誰にも助けを求めず、誰にも運命を預けず、ただ自分の終わりを受け入れる場所だった。

やがて本能寺は、炎に包まれていく。

京の空が赤く染まり始める。

それは朝焼けではなかった。

ひとつの時代が燃えている色だった。

織田信長は、その炎の奥へ消えていった。

静かに。

恐ろしく。

そして、二度と戻らなかった。


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